対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催案内】第九十五回 別府鉄輪朝読書ノ会 4.28

 

 

◆「別府鉄輪朝読書ノ会 4.28 」

四月は、ヘミングウェイ老人と海』(新潮文庫)を読んでいきます。いくつかの出版があるのですが、これから購入される方は新潮文庫版でお願いしたいです。

 

内容紹介

ノーベル文学賞ピューリッツァー賞を著者にもたらしたベストセラーにして世界文学の金字塔.

 

○課題図書:『老人と海』A・ヘミングウェイ新潮文庫

○日 時:4月28日(日)10:00-12:00

○場 所:別府市鉄輪ここちカフェむすびの

ファシリテーター:しみず

○参加費:¥1,500円(運営費、むすびのさん特製のメニュー代含む)すみません値上げしました。

○定 員:15名程度(要事前申し込み、先着順)

○備 考:課題本を事前に読んで参加してください。

      4/25木までにお申込みください。

 

 

【開催報告】第九十四回 別府鉄輪朝読書ノ会 3.31

 

 

 

とにかく、気が向いた頃、いつもの改札口に立っていれば誰か相手が来るだろうと思った。

 

『東京のプリンスたち』

 

 

 

 

「さあ、ユートピアに帰る時間となりました。」

 

『月のアペニン山』

 

 

 

白鳥が隣人愛を行わなかったことは誰にも出来ないことだったのである。

 

『白鳥の死』

 

 

 

 

その時はわしは山へ行って、新しい筵の上に、きれいな根性で座っているのだ。

 

楢山節考深沢七郎

 

 

 

 

三月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。

 

今回は深沢七郎楢山節考』を中心に、他『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』『白鳥の死』を読んで、感想を語り交わしました。

 

現代とは違う価値観、因習のなかで立ち上がる楢山まいりの崇高さに感動したり、涙したり、おりんそのものの個の在り方に萌えを感じたり、でもそれは共同体が生き残るためのシステムを内面化したものなので、どこまでこの感情に素直になっていいのか、神風特攻隊の事例を挙げながら、考えていきました。

 

誰かのために死ぬこと、自分の為に死ぬこと、読む年齢によって感想の変わる作品、難しい、潔い、かわいい、即身仏、死生観、おりんさんの感情、食えない世界、人生は屁みたい・・などなど参加者のみなさんの多様な読みが、作品を照らしながら、作品理解を重層的にしていきました。

 

年をとると言うことがネガティブに語られがちですが、老いることの豊かさを感じていくことが、個人と社会の成熟につながる(それを教養と呼びたい)のではないか。この読書会を90歳までできたら面白い。山をのぼり、下りることにも楽しさを見出すような。国もそう在れば良いなと。

 

特に男性の中高年の居場所のなさについて考えることが多く、おりんだけではなく、男性の老いに美しさを見出せるような・・これはまたの主題としたい。

 

 

今日のむすびのさん特製メニューは、『東京のプリンスたち』で多く流れるプレスリーから着想を得た、ミートローフとエルビス・サンド(ピーナッツバター、バナナ、ベーコン、ハチミツ)でした!初めての食べ物でとても美味しかったです。たしかに、これは太りそう。

 

 

 

 

ご参加ありがとうございました。

四月も老いについて考えたくヘミングウェイ老人と海』を読んでいきます。

お楽しみに。

 

 

ききとりうるかぎりの

日出町の魚見桜と菜の花と雨





 

 

わかったな それが

納得したということだ

旗のようなもので

あるかもしれぬ

おしつめた息のようなもので

あるかもしれぬ

旗のようなものであるとき

商人は風と

峻別されるだろう

おしつめた

息のようなものであるときは

ききとりうるかぎりの

小さな声を待てばいいのだ

 

石原吉郎「納得」

 

 

 

 

文芸評論家の宮崎智之さんのツイート

僕の実感では、文学部には文学が好きな学生が集まっていて、社会人になっても文学の話をしている人が多いので、人生をトータルで考えると、とても意義深い進学先だと言えそうです。

 

 

そう言えば大学時代は友人とずっと文学のこと、映画のこと、哲学のこと、美術のこと、見たテレビのことなど会えば永遠と語り合っていたのを思い出した。就職したら、周りにそんな話ができる人間など一人もいなかった。たまに文学好き、映画好きの人などいたが、仕事の立場などが邪魔して、心から話すことなどなかった。

 

わたしはもしかして読書や哲学対話など10年近く継続しているのは、失われたこのときの原風景を取り戻そうとしているのかもしれない。

 

生産性とかではない、ただ語り合う、悦楽とそこにある実存の光。

 

先日20代の方達と話す機会があって、彼等彼女等は10時間でも電話で哲学談義のようなことをすると言っていて、抑え難く、今しかないそれを青春と呼ぶのだと心で想った。

 

 

最近の晴れた日は春の鳥たちの声が聞こえ、それだけでも悦ばしく、辺りを見回し、上を向く。財布を新しいものに新調した。下着も新しいものに替えてはくと気持ちいいのだった。

 

 

声から声へ、肉声の文化を

 

 

前回の哲学カフェに参加された20代のAさんから感想をいただいたので、本人に了解を得てここでシェアします。
 
 
「テーマについてみんなで考えていくこと自体ももちろん楽しかったのですが、答えのないこと・思考を深めたところで利益につながるか分からないようなことに誠実に向き合った先に何か得るものがあるんじゃないか・よりよく生きていけるんじゃないかと信じている人(と私は感じました)がこんなにいるんだなあという点でも希望を感じて、前向きになれた貴重な時間でした涙。次回も楽しみにしています!ありがとうございました〜(^_^)」
 

 

土曜社から出ている整体対話読本というシリーズが好きでよく読んでいるのだけど、この『お金の話』というなかの対話で、川﨑智子さんという整体の方が「言語の中にも気があって、話を聞く姿勢の中にも気があります」と言っていて、これは哲学対話のことだろうと、はっとするものがある。
 
同じ哲学対話、哲学カフェといっても(わたしは自分が主催するだけでなくいろんな方の哲学対話に参加しているが)、それぞれずいぶんと体感が違うのに驚かされる。同じ空間であってもグループ分けされてもそのグループごとにまったく別物になる。そして、わたしが「いいな」と感じられた哲学対話はそう多くはなかった。(つまり、つまらないと感じた。)
 
じゃあ自分が主催しているのは、どうなんだろうと問えば、つまらなかったときもあるし、おもしろかったときもあるが、ただ他との違いはと問えば、「わからなさ」を多く含んでいると言えると思う。わからなさに開かれているというのか。もっと書くと変な話になるが、言葉だけを信じていないみたいな、ソクラティク・ダイアローグなど言葉に依れば寄るほどに、そこから遠ざかるというのか、聞くという声、聞かれる声だけになっていく。わからないとは哲学対話で語られる「わからない」ではない。そこには何があるのだろう。夢のような時間や空間がある条件の下に生まれているのではないか。無意識に任せたい意思がわたしにはある。対話、空間の、オラリティ。
 
 
 
 
・精緻な「意識的方法論」に拠る研究は堂々たる正面玄関を持ちながら、その向う側が意外に貧しい場合も皆無ではない。
 
 
・もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのであるまいか。
 
 
・翻訳が大きく無意識に根ざすものであることは私も詩翻訳体験にもとづいて何度か述べたことである。
 
 
・世界は固定的な記号の集積ではなく、索引の余韻と兆候の余韻の明滅するところではないか
 
 
 
 
驚異的なことを言語化していて戦慄するばかりだ。
 
 
 
・言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し。晴朗化する。夢が覚醒後にたどる変化を思い浮かべてみればよい。夢は言語化されると、単純化し、一般に圧力が減り、人に語れるものになる。いわば、通分される。中井久夫
 
 
この手前にとどまる哲学対話?
この過程の哲学対話?
 

 
 
 
フィルムとデジタルの違いのような?
 
夜の語りと昼の語り。
 
写真と絵画。
 
D・リンチの映画のようなでありたい哲学対話。
 
沈黙が図で語りが地。民主主義以前の。
 
他人にアドバイスしてはいけないというルールがあること。
 
勇気を持って手を挙げること。
 
 
総体にいくらかでも似たことばにとどかなくて,とどかないということばにもとどかないもどかしさをもかさねためながら,数万かい4つかどは通りかかられた.
 
『累成体明寂』黒田夏子
 

 

 
 
***
昨日の暖かい夜だったので表に出て、腕を旋回させて背骨を意識して動かしたら、「別のもの」が動いていく(抑圧の蓋がとれた、詰まりがとれた)感覚がして、こういうことが言語化できた。こういうこと(身体性)を対話の場と結びつけたいのだったわたしはまだ全力で球を投げていない、加減している。
 
 
自分が哲学対話を初めて十年が経って、哲学対話に関する本はたくさん出版されたけど、まだまだ語られていないことがたくさんある。というか、僕が知りたいことはそんなことじゃない、、むしろ整体だったりシュタイナーや書の滲み、中井久夫の言葉やオープン・ダイアローグなど他分野から啓発を得ることが多い。たぶんこれは自分が記述していかなくてはいけないと思う。ひっくり返ったそのときはたぶん哲学対話から遠く離れたものになっているかもしれない。でもそういう孤独な場所で書かれたものでしか、人に響くことはないだろう。
 
 
 

【開催報告】哲学フェ大分 3.16

 

三月の哲学カフェを開催しました。

今回は初参加の方が多く、たくさんの方達に集まっていただきました。

ありがとうございました。

 

今回のテーマは「頭が良い、悪いってどういうこと?」でした。

 

始めにこの哲学カフェのコンセプトやルールを共有して、自己紹介とともに

今回のこのテーマに関する、みなさんの考えや問題意識を「問い」の形にして

話してもらいました。

 

 

 

 

みなさんの問い

・「頭が良い」ことの価値観が優位になる社会がどうして生まれたのか?

・それ以外の価値観が優位になるにはどうしたらいいのか?

・環境によって変わるものではないのか?

・自分で考えることを禁止された人が頭が悪い?

・抽象化をいかにうまくできるかによって決まるのではないか?

・頭が良い/悪いという定義付け(ジャッジ)自体をそもそもするべきではないのでは?できないのでは?

・頭が良い悪いという区分をどうしてするのか?

・頭が悪いことは必ずしも「悪いこと」なのか?

・勉強で頭はよくなる?

・勉強ができることと頭が良いことは同じか?

・頭が良いとは知識をたくさんつけること?

・頭が良い悪いは誰が決めることなのか?頭の悪い人はいないのではないか?

・頭をよくする必要はあるの?(頭がいいとどんないいことがあるの?)

・頭が良くなるにはどうしたらいいの?

・アイデアマンは頭がいい人か?(「地頭力」と「学力」の関係)

・頭の良い悪いは幸福と関係あるのか?

 

 

これらの問いを元にして哲学対話を始めました。

学力や学歴、勉強と「頭が良い」との関連性を深掘りすると、必ずしもイコールでは

ないのではと気付いていきました。

 

 

 

みなさんの意見を聞いているうちに、学校の評価システムが人間理解を狭くしているように(一面的な理解を助長)思えました。どういう人間を育てたいのかというところと、学歴による評価がずれているといったところでしょうか。

 

また「頭の良さ、悪さ」について考えつつも、他者との関わり方(自分と他者を幸せにする)や豊かに生きる、学ぶ力は生き抜く力に繋がっている、生産性の有無に関係の無い頭の良さなど、新しい視点がでてきたところで時間となりました。

 

 

 

最後にもう一度、対話を終えて新たな問いがあれば出していただきました。問いに始まり問いに終わりました。

 

 

 

対話後のみなさんの問い

・「頭が良い」を多面的に見るにはどうしたらいいのか?

・「頭が悪い」はなぜ笑えないのか?

・頭が良い悪いは能力を示すだけでなく、態度や人との向き合い方も含まれるのではないか?

・頭が悪い人っているの?

・豊かに生きるってどういうこと?

・受け手の力が高まれば全ての人が「頭が良い」?(相手の能力+存在の承認)

・「頭が悪いね」は「人間として光るものがないね」になってしまっている?

 

 

また引き続きこのもやもやを考えてみてください。

 

哲学カフェが終わって別の場所に移動してクールダウンの時間を設けましたが、そこでもいろんな議論が個別に話されたようです。対話の旅は終わらず

 

ご参加ありがとうございました。

また対話の場でお会いしましょう♪

 

 

 

 

対話空間のオラリティ

 

 

 

ベルリンの壁が壊れたときも、とシュテファンがいった。


「ぼくはタクシーの運転手。夜、一人のお客さんを乗せて、東に入りました、東は入ったこともなくて。お客さんもぼくも。それで迷いました。明け方になってやっと見つかりました。その通りは、入っていった壁のそばでした。一日中ずっと嬉しかったので、お金はいらないといいました」


『鳥を探しに』平出隆

 

 

 

 

 

 

私の、誕生日、らしい。

オランダのように誕生日の人が周りにプレゼントを贈って祝した方がいい。

 

夜の温泉清掃のバイトを二つ掛け持ちしているのだけど、管理者が別々で、一つは管理が曖昧、もう一つは管理が細かすぎる。でも質としてはもちろん後者の方が良くて、マネジメントの質は最終的な仕事(清掃)の質に繋がるのがわかる。

 

脱衣所にある男湯と女湯のホワイトボードでは、たいがいいつも伝言板は女湯の方が充実している。これを読むと疲れが、体が軽くなる。女性の方がコミュニケーション的存在だ。他者の存在あって自分がいるのだ。「間」としての私を生きられているのだ。

 

 

 

 

 

自分の性に合う、というのがやっぱり仕事では大事だろう。継続がすべてなのだとしたら、なおさら。

 

シネマ5でロベルト・ロッセリーニ監督「神の道化師、フランチェスコ蓮實重彦氏がかつて絶賛していた作品で、でも20年近く見ることができずにいた映画にやっと辿り着いた。集団を撮るのが天才的にうまい。その教科書のよう。始終瑞々しく、ラストも素晴らしい。これなくしてタルコフスキーパラジャーノフなかったのではないか。

 

 

無意識に奴隷になってしまうこと。日常的に抑圧感や屈辱感に苛まれて生きていると別の場所で全能感や平衡をとろうとする。

 

 

 

 

 

結局、人は「楽しい雰囲気」の中でしか育ちません。大人も、子供も。楽しみがあるからこそ高いハードルにも挑戦しようとするのです。生徒たちを見ていても、研究会で成長していく若手を見ていても、このことを実感します。楽しさと成長が融合された瞬間を実感したとき、人はそれを「充実」と呼びます。堀裕嗣

 

 

 

どうしても読みたい文章が手に入らない(国立国会図書館でないと・・)ことに苦悶しつつも、よろこばしい体験かもしれない。そんなことがあり得るんだ。またそう思わせる文章があるのだ。

 

OPAMで公開中の畠山記念館名品展の国宝の藤原佐理筆「離洛帖」が今日までということで慌てて駆けつける。
 
今まで印刷物としては幾度も目にしていたが、本物は全然違った。本物を見ないとこの迫力は体感できない。墨の渇潤から濃淡、運びの速度、そして自由と自在。息をのんだ。ほかにも渡辺始興の「四季花木図屏風」の緑の深さとか秀吉が捨てたのを拝領した利休の茶杓銘「落曇」の絶妙な位置にある節とか感動してしまい何度もうろつく。
 
それにしても畠山一清翁のような数寄者とはなんだろうか。ある種のノブレス・オブリージュのようなものかもしれない。財や権力によって独占するのではなく、公開して皆を楽しませるという精神。しかとわたしにも届いたと言いたい。
 
同時併設の「アートで小旅行」が思いのほか良くて、特に正井和行氏の「翳(かげり)」と「茫(はるか)」の精神性に心打たれた。われ発見す。
 
 

 

 

シンポジウム「対話空間のオラリティ」は学びが多かった。石原孝二氏の「対話が人権の尊重を可能にするのではなく、 人権の尊重が対話を可能にする」とか斉藤環氏の「言語は否定神学的であるがゆえに、あらゆる場所に「逆説」 を見出し、「真理としての症状」にフェイクの要素を注入する」とかすごかった。わたしは哲学対話にながれるあの独特な(人に変容や気付きをもたらす)時間と空間を見極めたいのだ。だから哲学対話以外の場での、他ジャンルの対話に顔を出して学びを得たい。

 

齋藤環先生の新刊『イルカと否定神学(仮)』が楽しみです。

 

生成AIによる「オラリティ」の説明

オラリティ(orality)とは、即興的で一過性の話し言葉や声の文化を意味する概念です。一般にはリテラシー(literacy)に対比される概念で、リテラシーが文字の文化や書き言葉の世界を意味するのに対し、オラリティは声の文化を意味します。

 

私が朗読とか、声の文化にこだわってきたのが、ここにして繋がったような気がする。岡田斗司夫は人生60代からが伏線回収と言った。

 

確定申告終了。ほっ

 

 

 

 

まず世界が先に在るのか

 

 

今月の風蘭さんの書道教室は隷書の臨書。土中に埋もれていた後漢一八五年の曹全碑を見ながら書いてゆく。

 

紙幣とか看板、Appleなんかのフォントにもある、扁平で蛭のように波打った古めかしい字。(波磔と呼ばれる)その味を出すための筆運びが難しく、風蘭さんに指導を受けながら何度も書いていく。

 

自転車に乗るのに、右足が〜とかでやっていくとかえって乗れない。言葉と身体、頭と動作の乖離を、雰囲気似てきたという楽しさで近づけていく。書き方が先にあるのでは無く、まず世界が先に在る。これは練習あるのみ。楽しい時間。石川九楊氏の書ほど楽しいものはないという言葉を思い出しながら

 

(でも本当はたぶん)書くことで世界が現出するというのが精確だろう。だから書いていくのだ、白い紙に。絵画とか写真とか文学や詩もそうだろう。だから手は無限にに震えるのだ。

 

 

鳥山明がしんだ。

西成のやまきの大将もしんだ。

 

 

曹全碑より