対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催案内】哲学カフェ大分 3.16

 

 

 

 

◆「哲学カフェ大分 3.16」 夜開催です。

受験シーズン真っ只中ですが、私はいろんな子どもたちと日々接するなかで、勉強ができずに自分の頭の悪さを責める子どもたちと出会うことがあります。そもそも頭が良いとか悪いとかどういうことなのか考えてみたいと思います。

○テーマ:「頭が良い、悪いってどういうこと?」
○日 時:2024年3月16日(土)18:00-20:00 
○会 場:大分市
ファシリテーター:しみず
○参加費:700円(学生さん500円)
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:開催前日までに以下のホームページからお申込みください。
 
 
 

別府市立中部中学校での哲学対話

 

別府市立中部中学校で2クラス哲学対話を生徒のみんなとしました。

最初に簡単に哲学と哲学対話について説明し、哲学対話の目標やこころがまえを

みんなと共有してから始めました。

「哲学」については聞いたことのある生徒が多い印象でした。

 

時間がないので事前に模造紙に書いて準備しました。

 

 

考えたい問いは生徒のみんなに事前に集めていて、前半のクラスは多かった、「生きる意味って何だろう?」にしました。私も中学生のころに一人でよく考えていた問いでしたが抽象度が高いので、「ああ生きているなあって、実感するときって、どんなときかなあ?」とか、いろんな足場になるような問いかけをして、対話を重ねました。

 

 

初めはぎこちなく自分で考えて自分の意見を話すということに慣れていないという印象がありましたが、粘り強く問いを重ねることで、少しずつ自分の考えを話し、お互いに問 いかけたり、コツをつかんだ生徒は他の生徒にアドバイスしたりケアの態度が見られました。抽象性の高い問いでしたが、「死にたいって思ったことある?」というような踏み込んだ問いも出てきて、心のうちを公に話す機会は得難かったのではないのかと思いました。私自身はみんなの意見を聞きながら、何かしたいことに熱中しているとき、したいことができ ているときに生きる意味や生き甲斐、それが生きる支えになっているんだなという気付き を得られました。中学生という時点であっても、それぞれの具体的な経験に即しながら、考え、語り、聴くということができたと思います。

 

 

もう一つのクラスでは事前に集めた問いがばらけたので、当日に多数決で選ぶことにしました。もっとも多かった 問いは「なぜ岸田総理は検討するのか?でした。投票ががったこともあり、緊張がほぐれてその後の哲学対話も躍動感がありめやすかったです。岸田総理という遠い存在 のように思える人物も、組のトップとして生身の人間として見てみれば、生徒会委員⻑、部キャプど存在としてえて考えることもでき、(トップ人間)の孤言動も理解できるようになる。初めはい印象でしかなかった岸田総理に うことも出る。哲学対話をしてこうした人間理解のダナミズムを体験できた のではと思いました。

 

(この問いが選ばれたときは、先生方に動揺がみられましたが、私は充分哲学対話として成立すると思ったので、この問いで進めました。)

 

 

【事後の生徒からの授業評価や感想を読んでの私の意見を報告書にまとめて提出した】

1

「難しさ」と「共感」の体験に出会うこと。終了後の生徒たちの感想を読むと、難しかったとしつつも楽しかった、またやってみたいとの意見が多く書かれていました。普段の教科学習では「難しさ」というのは敬遠されがちではありますが、難しいと思いながらも考えてみるのが哲学の第一歩でもあります。またクラスメートとの対話は、自分と同じ意見、違う意見に触れ、共感を覚えるきっかけになったと思います。同じクラスにいても、話して聴く体験がなければ相互の理解はなく、それぞれが孤立したままですが、哲学対話はそこを乗り越え、ともに共同の探求者としての一歩を踏み出すことになります。答えのない問いに向き合 った体験は、知識を込んでいく普段の授業とはまったく違う肌ざわりの学びの体験で、らにとってきっと有益なものになっていくことと思います。たとえば「道徳」の教科のようなで継続的に哲学対話ができることをんでいます。

 

2

自分たちの選んだ問いがリアルタイムに選ばれて、それが哲学対話のテーり得ることにきや楽しさを感じているのが伝わりました。これこそ双方向の「体的で対話的ない学び」を体験できたことと思います。また自分の意見がりに丁寧に聞かれていくという体験が彼等の自を高め、お互いの考えていることを知ることは相互理解につながり、クラスの中での自分の居場所を見つけるきっかけにもなります。ありがとうございました。

 

 

 

【開催案内】第九十四回 別府鉄輪朝読書ノ会 3.31

 

 

 

村では山へ行くという言葉に二つの全く違った意味があるのであった。どちらも同じ発音で同じアクセントだが、誰でもどの方の意味だかを知りわけることが出来るのである。

 

楢山節考深沢七郎

 

 

 

 

 

◆「別府鉄輪朝読書ノ会 3.31」
三月は姥捨山伝説を材にとった楢山節考深沢七郎新潮文庫を読んでいきます。他収録の3編『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』なども一緒に読んでいきます。

内容(「BOOK」データベースより)
「お姥(んば)捨てるか裏山へ裏じゃ蟹でも這って来る」
雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ――因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた「楢山節考」。ほかに「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」などの3編を収める。

○課題図書:楢山節考深沢七郎新潮文庫
○日 時:2024年3月31日(日)10:00-12:00
○場 所:別府市鉄輪ここちカフェむすびの
ファシリテーター:しみず
○参加費:¥1,300円(運営費、むすびのさん特製のメニュー代含む)
○定 員:10名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:課題本を事前に読んで参加してください。
      3/28木までに以下のホームページからお申込みください。

 

kannawanoasa.jimdofree.com

【開催報告】第九十三回 別府鉄輪朝読書ノ会 2.25

 

 

 

その年に動物たちはみんな奴隷のように働きました。

 

動物農場ジョージ・オーウェル

 

 

 

2月の別府鉄輪朝読書ノ会はジョージ・オーウェルの『動物農場』を課題図書とし、参加者の皆さんと読んでいきました。

 

初めは志高く、理想に向かっていたのに、どこで歯車がおかしくなっていったのか・・反対意見を言うスノーボールを追い出してからだ、識字力が問題だ、暴力装置ができたこと、言われるがままで考えないこと、歴史を修正したから、寛容性がなくなったから、属性で分けたから、いやそもそも最初から怪しかった、、などなど権力が腐敗していった過程をみなさんと見ていきました。

 

 

そのなかで(文脈からずれた)猫のようにありたい、でも猫のような自己責任は大変だぞ、知らなくて良いこともある、自分の役割があればどんな環境でも幸せかもしれない、誰しもが権力を与えられたら変容する?などなど、いろんな意見が聞かれました。

 

 

今日本でこの本が読めて、そして語ることができるという環境を有り難く思いつつも、ではどんな世界が理想として描けるのか、平等とか対等があり得るのかとか、非常に難しさを感じました。利子のない腐る貨幣としての地域通貨の話もありましたが、こういう読書会や哲学対話の場でも地域でも、ニュートラルな社会の余白を作れたらと思っています。(権力の発生しにくいシステムの在り方はあり得るはず。一期一会とか)

 

 

 

今日のむすびのさんの特製メニューはロシアの農民料理である、酸味のある野菜スープに豆の入ったシチー、ライ麦の黒パン、カーシャという蕎麦の美のおかゆでした!珍しいお食事、ありがとうございました。美味しかったです。

 

ご参加ありがとうございました。

 

3月は深沢七郎の『楢山節考』を読んでいきます。役に立つ、立たない?って何なのか考えたい。

 

 

【開催報告】哲学カフェ大分 2.17

 

2月の哲学カフェ、哲学対話を開催しました。

今回は「オンとオフ」をテーマに、ソクラティク・ダイアローグのやり方を

参照しながら、全員でテーマに関する普遍的な概念を得るべく、約3時間かけて

結論を導き出しました。頭をフル回転させて、みなさん終わった後は

充足感があったようです。ご参加ありがとうございました。

 

 

時間の節約もあり、事前にみなさんから今回のテーマに関しての問いとエピソードを

集めました。ご協力ありがとうございました。

 

 

提出された問い

Q ONであるべき場面はある?

Q オンとオフのスイッチは何ですか?

Q オン/オフの切り替えができない時はどんな時?

Q そもそもオン オフって何?

Q オンもオフもない生活を送るには?

Q オンとオフの表現は労働至上主義に回収される新しい言い方ではないのか?

Q 自分の切り替えが他人に受け入れられているの?

Q オンとオフは自分でコントロールできるもの?

Q オンとオフはどんな状態なのか?

Q オンとオフが成立する条件とは?

Q オンにしたいとき何をすればオンになるか?

Q オンとオフでしっかり線引きできるのか?またグラデーションなのか?

 

出てきたエピソードも整理しながら、オンとオフはスイッチのようなはっきりと分かれたものなのか、それとも連続的なグラデーションのようなものなのか問うところから哲学対話を始めました。

 

 

途中の板書

 

オンとオフの具体例を具に聴いていくと、

どちらとも言える(草むしりとか)ものもあったり、

単純な二項対立ではないことに気付いていきました。

オンにこそ落ち着きや安心を感じる人もいまいた。

 

 

こどもにはオンオフはないといった指摘もまた示唆に富むものでした。

 

 

 

最後、全員で結論となる文章を作っていきました。

 

 

1 オンとオフとは、自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なときである。

 

2 オンとオフとは、文化や習慣や環境によって、スイッチが切り替わるものである。

 

 

導き出された結論が、最初にみなさんの出された問いに応えているか1つずつ

検討しました。どれにも応えていました。

 

私が個人的には1のオンとオフを恒常的なものとして捉えるのではなく、

認識が浮上した「とき」としてとらえるのが哲学的でいいなあと思いました。

 

※つまりオンとオフが最初からあるのではなく、差異の感覚として浮上したときにはじめて対象として知覚されるものとして存在する。

 

だから1を正確に言い直すとこう言うこともできるかもしれません。

 

1’ 自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なとき、人はそれをオンとオフと呼ぶこともある。

 

とか労働至上主義への批判を加味すれば、

 

1’' 自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なとき、人はそれをいつしかオンとオフと呼ぶようになった。

 

 

死はオンでもオフでもないのかとか、オンの良さ、オフの悪さとはとか、

いろんな問いが浮かんできましたが、また別の機会に・・

 

 

約3時間、おつかれさまでした。

来月は2時間の哲学対話を予定しています。

また興味がありましたら、ご参加ください。

 

 

石鼓文の臨書から

 

 

 

何かを作ることは必ず、新たな、別の現実を生み出すことだと考えます。なぜならそこには、かつて存在しなかったものが生まれるからです。

 

『架空線』澤直哉(港の人)

 

 

 

 

 

 

今月の風蘭さんの書道教室は篆書の臨書。石に刻まれた文字、石鼓文を臨書する。線の質、筆運び、形、太さ細さ、バランス、速度、(ひとまず線を理解するのが目標だが)すべてを鑑みながら書くこと、その書の複雑性はむずかしさとともに楽しさ、面白さの源泉でもあった。
 
十年前に通っていた中国武術の韓氏意拳の師、光岡英稔氏は指先など先端こそが大事だと仰有られた。そして書を薦めていたのを思い出した。書は先端への意識が研ぎ澄まされると。
 
中国由来というだけでなく、書と韓氏意拳の共通点は多い。微細な感覚が開かれるというのか、世界を見るまなざしの解像度が増すのを感じる。主観も客観もなく、争われる固着した場所はなく、水のように流れ続け、そしてそれは老いてもなお、というか老いてこそ導かれる極楽浄土のような世界かもしれない。
 
 


先日臨書した石鼓文をどこかで見覚えがあるなと考えていたら、夏目漱石が自身で装幀した『こころ』にそれが使われているのだった。
 
そんな初版を復古させた祖父江慎ブックデザインを棚から取り出して撮影。漱石のセンスを味わいながら、ほんとうにいい本だとしみじみ愛でた。
 
***
 
石鼓文(せっこぶん※漢字変換されないので単語登録した)を臨書して考えたこと。石鼓文は石に刻まれている文字を拓本したもので、かすれやカケ、ゆれなどすさまじいノイズに満ちている。wikiには「戦乱のたびに亡失と再発見を繰り返し、亡失のたびに破壊されており、再発見のたびに判読できる字数がチェックされ、戦乱による被害状況も克明に表されている。」と書かれている。このノイズこそが書の命とも言えるのではないのか。不鮮明もにじみも紙の紙魚も墨のしたたりも否定せず、現代はノイズを不安として受け止めているようだが、ノイズこそが安心なのではないのか。澤直哉氏はノイズを不安とともにいてくれるものとして肯定する。
 
 
ノイズを召喚すること、についてしばらく考えたい。たとえば手書きとタイプされた文字の違いとか、対話のなかでの言葉でも、手書きの言葉とタイプされた言葉があるように思える。

立春吉日、藍のよろこび

 

 

立春の吉日の日に書家の風蘭さんのワークショップと書のライブを楽しむ。よろぷぷさんの演奏とジュン・チャンさんの舞いの中での風蘭さんのライブ書。
 
第一部のラピスラズリや藍の青い墨を用いたワークショップでは、形にとらわれない書、書以前の形態、筆と墨の遊び、青の奥行きに魅せられながら、意味(正解)に逃れることの難しさ(無であることの難しさ)とそこからの解放とのせめぎ合いを楽しむ。書道ももっと自由であってよい。目を瞑ってよろぷぷさんの音も聴きながら青色の墨を擦り、私は海とか波打ち際の細かい粒立ちのようなものをずっと感じていた。わたしは大洋の海を欲した。
 
 






第二部のライブもまた近代から離れること、書の自由、音の自由のなかで。マルチスクリーンのような配置された5枚の白い紙に線や点が引かれ、落ちてゆくその過程がすばらしかった。わたしも参加して青を落とした。雨の春、光、音、青、撥ねた。
 
ライブ終了後、外に出て駐車場に向かったときに土に椿の花々が落ちていた。この「自然」に白色空間での演劇空間との連続性を感じた。わたしも自然だし、書も音も自然だった。
 
 
亀川の白色空間にて。ありがとうございました。