2月の哲学カフェ、哲学対話を開催しました。
今回は「オンとオフ」をテーマに、ソクラティク・ダイアローグのやり方を
参照しながら、全員でテーマに関する普遍的な概念を得るべく、約3時間かけて
結論を導き出しました。頭をフル回転させて、みなさん終わった後は
充足感があったようです。ご参加ありがとうございました。
時間の節約もあり、事前にみなさんから今回のテーマに関しての問いとエピソードを
集めました。ご協力ありがとうございました。
提出された問い
Q ONであるべき場面はある?
Q オンとオフのスイッチは何ですか?
Q オン/オフの切り替えができない時はどんな時?
Q そもそもオン オフって何?
Q オンもオフもない生活を送るには?
Q オンとオフの表現は労働至上主義に回収される新しい言い方ではないのか?
Q 自分の切り替えが他人に受け入れられているの?
Q オンとオフは自分でコントロールできるもの?
Q オンとオフはどんな状態なのか?
Q オンとオフが成立する条件とは?
Q オンにしたいとき何をすればオンになるか?
Q オンとオフでしっかり線引きできるのか?またグラデーションなのか?
出てきたエピソードも整理しながら、オンとオフはスイッチのようなはっきりと分かれたものなのか、それとも連続的なグラデーションのようなものなのか問うところから哲学対話を始めました。
オンとオフの具体例を具に聴いていくと、
どちらとも言える(草むしりとか)ものもあったり、
単純な二項対立ではないことに気付いていきました。
オンにこそ落ち着きや安心を感じる人もいまいた。
こどもにはオンオフはないといった指摘もまた示唆に富むものでした。
最後、全員で結論となる文章を作っていきました。
1 オンとオフとは、自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なときである。
2 オンとオフとは、文化や習慣や環境によって、スイッチが切り替わるものである。
導き出された結論が、最初にみなさんの出された問いに応えているか1つずつ
検討しました。どれにも応えていました。
私が個人的には1のオンとオフを恒常的なものとして捉えるのではなく、
認識が浮上した「とき」としてとらえるのが哲学的でいいなあと思いました。
※つまりオンとオフが最初からあるのではなく、差異の感覚として浮上したときにはじめて対象として知覚されるものとして存在する。
だから1を正確に言い直すとこう言うこともできるかもしれません。
1’ 自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なとき、人はそれをオンとオフと呼ぶこともある。
とか労働至上主義への批判を加味すれば、
1’' 自分の感情や五感、状態の振り幅に自覚的なとき、人はそれをいつしかオンとオフと呼ぶようになった。
死はオンでもオフでもないのかとか、オンの良さ、オフの悪さとはとか、
いろんな問いが浮かんできましたが、また別の機会に・・
約3時間、おつかれさまでした。
来月は2時間の哲学対話を予定しています。
また興味がありましたら、ご参加ください。