レヴィナス著『存在の彼方へ』
ヴァンセンヌ中納言さんのアマゾンレビュー
コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、 大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、 人間が生きていくうえで避けられないことであり、 またごくありふれたことでもある。 しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、 大変な覚悟が必要である。 人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。 相手にコンタクトをとることは、 自らを危険に晒すことであるともいえる。 人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。 相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。 主体が他者によって形成されるといった議論もまた、 示唆に富んでいる。確かに訳はよくない。 拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。 数ページ日本語にしてみたが、こなれない。 そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。 生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね) と考えている私にとって、もっとも推したい本である。
今は近所の大衆温泉と駐車場が工事中で、そこにあったコミュニティ(集まり)が消滅していて、自分だけがこの地域に取り残されたような、でもとても静かなので、いろんな内省には適している日日をすごす。
哲学対話に参加するということは、終わりなき対話の始まりでもある。むしろ終わってからが本番かもしれない。哲学対話のその後をここに書きたい。多くのひとに知ってほしい主観も混じったエピソードです。
・あるとき、自分が開催した哲学対話のその後の話を聞く機会に恵まれた。ある学校で哲学対話を開催した後日談。「学校は必要なのか」という(生徒から出された問い!)をテーマに学校で!哲学対話をした。多くの生徒は「学校は将来のために必要だ」という意見だったが、ある一人の生徒が口ごもりながら、ためらいながら、息を絞り出すように、手にしたマイクに力をこめて「学校に行きたくないときもあります」と勇気ある発言をした。勇気があるというのは、その学校は1学年が10人以下の小さな学校で、つまり幼稚園くらいからずっとみんな一蓮托生のような関係性で過ごしてきて、行きたくないと発言することはそんな「仲間」たちを否定することにも繋がりかねない危険な発言だろうからだ。でもその生徒Xさんは本音を公的な場で語った。今まで誰にも言っていなかったことを公にした。その日からXさんは変わった。そのままみんなと校区内の学校へ進学するのではなく、校区外の自分の行きたい学校に通いたいと猛勉強をはじめた。当初は成績的に厳しいと思われたが、先日合格しましたという連絡をいただいた。その話をお母さんから聞いたときは私は泣きそうになった。
☆(ここで大事な点が4つあって、一つはファシリとして「学校は将来のために必要だ」という以外の意見が出やすいように場の安心・安全性をつくろうとし、本音が出やすい場作りに努めたことと、二つ目はそれに呼応したのか保護者の方の意見で、私は子どもの頃学校は嫌いだったという意見がけっこう出たことがXさんの背中を押したのではないのかと想像する。そして三つ目は何よりXさんの意見を否定する者はいなかったし、みんなしかと受け止めたこと。さらに四つ目としてこれは特殊な事例ではなく大人にも子どもにもある変容だということ)
哲学対話の効用とか効果などというのはケチくさい話なのでしたくないし、むろんXさんの合格と哲学対話は遠い聯関かもしれないが問うことの力や自分の話がフラット(ジャッジされず)に聴かれることの力やその勇気に周りが応答することの重要性を示すのに、これほどのエピソードはないだろうと思われるのでここに書き記しておきます。つまり変容の契機が子どもにも大人にも開かれているということです。それは哲学対話が論理的な思考や問題解決能力を育んだり、民主主義の土台をつくろうとしたりすることよりも大切なことだと個人的には考えています。それもとても大事だけど。(たぶん主流の考え方ではない)まずはいかにして自分自身であるか。
そして先日開催した哲学カフェの感想を本人の了承を得てここに掲載します。哲学対話、哲学カフェってどんなものなの?と聞かれることは多いのですが、まずは参加してみるのがいいと思いますが、それが怖いとか面倒だという場合は、主催者ではなく、参加された方の感想を聞くことが一番参考になるかもしれません。そこには楽しさだけでなく、苦しさもあるし、加害や受苦の危険性もある。でも冒頭のレヴィナスの著作の書評に記されているように、やはり他者と関わる道を閉ざしたくないと考えています。
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Aさんの感想
土曜日はありがとうございました。
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Bさんの感想
昨日は哲学カフェ&ファシリテーターお疲れさまでした。
いつものように哲学カフェに参加した後の習慣で帰りの電車から今までずっと、自分の発言や昨日のあの人の発言はこういうことだったのかもと、ひとり哲学カフェじゃないですけどずっと考えを巡らせています。
去年の1年間は自分が抱えているその時の課題や問題があって、それに対する解決法、、、とまでもいかずとも何かしら足掛かりが欲しくて哲学カフェする、その1年間だった気がします。個々の哲学カフェの参加に関しては満足することがとても多かったです。
昨日も言いましたけど、ある程度の共通前提の共有だったり、抽象的な思考力、もっというと「他者と対話するという態度を持っている人」との対話場所は社会にとても少ないので、、、(モヤモヤが残ったり、他者の発言で傷つき、その後、大きな混乱が起こったとしても)
私は哲学カフェは「人生のスクランブル交差点」のようなものと考えています。お互いの素性を知らない人がテーマにひきつけられたり
個々の問いをもちより、集まって、お互いの人生が少しだけ交差するような場所。対話が終わった後は解散して、それぞれの人生がまた続いていくような。それはとても対話の環境としては居心地のいい場所ですね。
ただ、その一方で私個人は副作用というか、参加しているときの良い対話者でありたい自分と普段の利己的な自己とのギャップ、哲学カフェというある種、理想的な対話の場所にいる自分と普段の生々しい生活の中に身を投じている自分のギャップ。
他者と分かり合えるかもという可能性の場所と分かり合えるどころかお互いがひどく傷つけあう現実との往復におけるギャップみたいなものにもがき苦しんだ1年でもありました。私は自分の実存のために哲学カフェに参加していたともいえるしちょっと肩に力が入りすぎていた(笑)ともいえるでしょう
そういう意味では昨日の哲カフェでテーマを決めるときにクマさんが「今日はテーマを一つに決めずに面的にいろいろなテーマをめぐって話していきます」
というようなことを言ったと思うんですけど、私はその時に「あっ!!私が本当に今日、話し合いたいのはまさにこういうことなのだ!!」と内心驚きました。
私が抱えていた「自己と分かり合えない他者」「生きるとはとても個別のことなのだから皆違う世界に生きている」
まさに私は意識的、無意識的にそのことについて語り合いたいと思っていた。。(不思議なことに哲カフェではこういうシンクロがたまに起こりますね・・・なぜでしょうか・・・)
対話の中身としてはどんどん下に深まっていくいうより縦横無尽に広がっていったなあ、という印象がしました。
人間の思考は個人⇔他者、男⇔女、大人⇔子供、日本⇔海外など2項対立で考えがち(人間の脳、容量の限界?)ですが昨日の対話は
それを克服する端緒を少し見た気がします。
本当はSDについても書こうと思ったのですが、頭から煙が出そうなので今日はここまでにします(笑)またSD会に参加した後にでも感想を送りますね。
それではまた哲学対話の場所で語り合いましょう!!
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Kさんの感想
初めて哲学対話に参加しました。このところ仕事がお休みになって何に混乱しているのかは分からないけどなんだか混乱していて、けれど、本日参加してみてもっと混乱、混迷してみようという気になって、自宅に戻って思いっきり一人で混乱のドツボにはまれると思うと嬉しくて幸せに感じるのでした。ありがとうございます。