何かを作ることは必ず、新たな、別の現実を生み出すことだと考えます。なぜならそこには、かつて存在しなかったものが生まれるからです。
『架空線』澤直哉(港の人)
今月の風蘭さんの書道教室は篆書の臨書。石に刻まれた文字、石鼓文を臨書する。線の質、 筆運び、形、太さ細さ、バランス、速度、( ひとまず線を理解するのが目標だが) すべてを鑑みながら書くこと、 その書の複雑性はむずかしさとともに楽しさ、 面白さの源泉でもあった。
中国由来というだけでなく、書と韓氏意拳の共通点は多い。 微細な感覚が開かれるというのか、 世界を見るまなざしの解像度が増すのを感じる。 主観も客観もなく、争われる固着した場所はなく、 水のように流れ続け、そしてそれは老いてもなお、 というか老いてこそ導かれる極楽浄土のような世界かもしれない。
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石鼓文(せっこぶん※漢字変換されないので単語登録した) を臨書して考えたこと。 石鼓文は石に刻まれている文字を拓本したもので、かすれやカケ、 ゆれなどすさまじいノイズに満ちている。wikiには「 戦乱のたびに亡失と再発見を繰り返し、 亡失のたびに破壊されており、 再発見のたびに判読できる字数がチェックされ、 戦乱による被害状況も克明に表されている。」と書かれている。 このノイズこそが書の命とも言えるのではないのか。 不鮮明もにじみも紙の紙魚も墨のしたたりも否定せず、 現代はノイズを不安として受け止めているようだが、 ノイズこそが安心なのではないのか。 澤直哉氏はノイズを不安とともにいてくれるものとして肯定する。
ノイズを召喚すること、についてしばらく考えたい。たとえば手書きとタイプされた文字の違いとか、対話のなかでの言葉でも、手書きの言葉とタイプされた言葉があるように思える。