対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

石鼓文の臨書から

 

 

 

何かを作ることは必ず、新たな、別の現実を生み出すことだと考えます。なぜならそこには、かつて存在しなかったものが生まれるからです。

 

『架空線』澤直哉(港の人)

 

 

 

 

 

 

今月の風蘭さんの書道教室は篆書の臨書。石に刻まれた文字、石鼓文を臨書する。線の質、筆運び、形、太さ細さ、バランス、速度、(ひとまず線を理解するのが目標だが)すべてを鑑みながら書くこと、その書の複雑性はむずかしさとともに楽しさ、面白さの源泉でもあった。
 
十年前に通っていた中国武術の韓氏意拳の師、光岡英稔氏は指先など先端こそが大事だと仰有られた。そして書を薦めていたのを思い出した。書は先端への意識が研ぎ澄まされると。
 
中国由来というだけでなく、書と韓氏意拳の共通点は多い。微細な感覚が開かれるというのか、世界を見るまなざしの解像度が増すのを感じる。主観も客観もなく、争われる固着した場所はなく、水のように流れ続け、そしてそれは老いてもなお、というか老いてこそ導かれる極楽浄土のような世界かもしれない。
 
 


先日臨書した石鼓文をどこかで見覚えがあるなと考えていたら、夏目漱石が自身で装幀した『こころ』にそれが使われているのだった。
 
そんな初版を復古させた祖父江慎ブックデザインを棚から取り出して撮影。漱石のセンスを味わいながら、ほんとうにいい本だとしみじみ愛でた。
 
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石鼓文(せっこぶん※漢字変換されないので単語登録した)を臨書して考えたこと。石鼓文は石に刻まれている文字を拓本したもので、かすれやカケ、ゆれなどすさまじいノイズに満ちている。wikiには「戦乱のたびに亡失と再発見を繰り返し、亡失のたびに破壊されており、再発見のたびに判読できる字数がチェックされ、戦乱による被害状況も克明に表されている。」と書かれている。このノイズこそが書の命とも言えるのではないのか。不鮮明もにじみも紙の紙魚も墨のしたたりも否定せず、現代はノイズを不安として受け止めているようだが、ノイズこそが安心なのではないのか。澤直哉氏はノイズを不安とともにいてくれるものとして肯定する。
 
 
ノイズを召喚すること、についてしばらく考えたい。たとえば手書きとタイプされた文字の違いとか、対話のなかでの言葉でも、手書きの言葉とタイプされた言葉があるように思える。