周知のように王羲之の書は、肉筆といってもいずれも複製ばかりで、自ら書いた書はただの一点も残っておらず、また真偽のほども明らかではない。にもかかわらず、王羲之筆と伝えられてきた書群の彼方に浮かぶ、ひとつのかすかな映像、否、映像以前のわずかなさわりのようなものがある。そして、それは確実に現在の書につながっている。
書の原郷(パトリ) 石川九楊
石川九楊氏が精選した副島種臣の書を見るために佐賀城本丸歴史館へ出かける。
その多くの著書を読み憧れ続け敬愛した石川九楊氏がふと前を歩いていた。
城の石垣を撮っていたアングルに先生が入る。
その背中からの気配に清冽なものを感じた。
その後講義を受け、氏がこの日のために書いた手書きのレジュメを受け取る。
生の字を初めて見て、それにも感動する。
講義は氏の文体そのものだった。
憧れる人がいる、自分にとって先生がいるというのは、
魂のひとつの座標軸のようなもの。北極星のような。
憧れは、見た目だったり人格云々に憧れることはなく、
私が憧れるのは、ひとえに彼の文体であり、書かれたものにたいしてで、
つまり私は、私を構成しているのは、私の魂に直接連絡するものは、
そこにしかないのかもしれないと気付く。
レヴィナスや吉本隆明、折口信夫、ユング、プルースト、文語体の聖書・・・
いろんな文体に導かれて生きる。
書は人なり。