日本史を一から学び直していて、歴史を学ぶということもまた、
個々の感性に大きく依存するというあたりまえの事実に驚かされる。
個々の感性のもようの違いにより、歴史は違った相貌を見せる、魅せてくれる。
歴史が分からなければ、今も分からない。
古代から学び直す必要がある。
日本史の授業を展開する、あるYouTubeを隙間時間に視聴する。
彼は黒板に白墨で板書しながら、解説していくスタイル。
そして重要なのは、彼が白墨で板書している時間をスキップせずに
見せているところだ。
その間のカンカンカンッというあの白墨の響く音、
彼が解説し話す時間と同じくらいのボリュームがあるかもしれない。
あの合い間こそが授業のなんたるかだろう。
こちらが書き写す時間でもあるし、考え整理する時間でもあるし、
もしくは空想に耽ったり、なにかを聯関させる時間かもしれない。
アナログというのは、辞書的な定義だと連続的な量として情報を扱うとなる。
(デジタルは段階的だ)
最近自分が講義するときなど、すっかりkeynoteなどのプレゼンソフトに
頼るようになってしまった。(頑なにそれで講義を拒否した教授がいた)
便利だし、楽だし、使い回せるし、なにより編集することができる。
でも授業は情報ではない。
総体的、総合的な量をまるごとプレゼントするものだ。
ショート動画など時代はその逆を行っているけど、
この先生の姿勢をとことん支持したい。
船旅もまた多くの間のあるもっとも贅沢な旅のスタイルであろう。