対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。

 

 

 

 

 

 

 

人間は他人を救うとおなじ次元で、じぶんを救うというようにはできていません。

 

吉本隆明

 

 

 

 

2022.9.5-11

月曜日

言葉そのものが救済となるような地平へ。

宗教は救済の地平にはないことに気付け。

宗教がわかりやすすぎる。

株式会社のような宗教。

不可解さに達していないものは宗教とは呼べず、

不可解さのなかに宗教はある。

 

 

 

馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には雪が結晶する。

 

「針葉樹林」石松佳

 

 

 

 

火曜日

こども哲学の時間を開催する。

世界が薄明から開示される思い。

 

 

 

 

水曜日

台風後のすばらしい空気。

涼しさの感覚を久しぶりに味わって、よく眠れる。

 

葉に照り変える光の輝かしさ。

 

夜は英語の授業。

 

 

木曜日

パンフレットの文言を練り直す。

自分の言葉で語る難しさと楽しさ、

創造とはつねに前衛の位置に立っていること。

自由であること。

 

 

 

金曜日

ブルーレイがいっぱいになったので、ディスクに書き込む作業。

こういう作業は好きだ。

自分だけのプレイリスト、映像保管をわくわくする。

 

 

 

土曜日

カレーやMOMOでドナ・ウィリアムズの『自閉症という体験』の木村さんによる朗読。

合間、合間に木村さんの思索、自閉症施設めぶき園での経験も交えつつ語りが入る。

木村さんはどこかでお見受けしたと思っていたら、韓氏意拳の稽古場で何度も

会っていたのだった。

 

自閉症について、言語以前の、身体化以前の名付けられる前にい続けるこどもたちは

たしかに神様みたいな存在かもしれない。

 

 

わたしのなかで何かが繋がりつつある。

言語の世界と実在(存在)の世界。

大きなものと大きなものが。

堰を切ったように、激しい流れが生まれるような予感。

セザンヌパウル・クレーフレイレクリシュナムルティ

わたしたちはなにより自由を愛する、

 

 

 

 

遙か以前にこの世を去ってはいるが、画布の上に現われ、繰り返し現われ続けている帝王の微笑は、像(イマージュ)として、あるいは本質としてそこにあるのだ、と言うのではとうてい足りない。私が画面に目を向けるやいなや、その微笑それ自体が、かつてのようなひどく生き生きとした姿で、そこにあるのだ。セザンヌが描こうとしていた「世界の瞬間」、それはずっと以前に過ぎ去ったものではあるが、彼の画布はわれわれにこの瞬間を投げかけて続けている。そして彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現われ、繰り返し現われて来よう。エクスに聳える固い岩稜とは違ったふうに、だがそれに劣らず力強く。本質と実存・想像と実在・見えるものと見えないもの、絵画はそういったすべてのカテゴリーをかきまぜ、肉体をそなえた本質、作用因的類似性、無言の意味から成るその夢の世界を繰り拡げるのである。

 

『眼と精神』メルロ・ポンティ

 

 

 

 

フリースクールに飾られたセザンヌの写真。セザンヌの写真のあるフリースクールなどあるのだろうか。



 

日曜日

走って汗をかいた。

そのことだけが間違いのないのように思えた。