対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

対話空間のオラリティ

 

 

 

ベルリンの壁が壊れたときも、とシュテファンがいった。


「ぼくはタクシーの運転手。夜、一人のお客さんを乗せて、東に入りました、東は入ったこともなくて。お客さんもぼくも。それで迷いました。明け方になってやっと見つかりました。その通りは、入っていった壁のそばでした。一日中ずっと嬉しかったので、お金はいらないといいました」


『鳥を探しに』平出隆

 

 

 

 

 

 

私の、誕生日、らしい。

オランダのように誕生日の人が周りにプレゼントを贈って祝した方がいい。

 

夜の温泉清掃のバイトを二つ掛け持ちしているのだけど、管理者が別々で、一つは管理が曖昧、もう一つは管理が細かすぎる。でも質としてはもちろん後者の方が良くて、マネジメントの質は最終的な仕事(清掃)の質に繋がるのがわかる。

 

脱衣所にある男湯と女湯のホワイトボードでは、たいがいいつも伝言板は女湯の方が充実している。これを読むと疲れが、体が軽くなる。女性の方がコミュニケーション的存在だ。他者の存在あって自分がいるのだ。「間」としての私を生きられているのだ。

 

 

 

 

 

自分の性に合う、というのがやっぱり仕事では大事だろう。継続がすべてなのだとしたら、なおさら。

 

シネマ5でロベルト・ロッセリーニ監督「神の道化師、フランチェスコ蓮實重彦氏がかつて絶賛していた作品で、でも20年近く見ることができずにいた映画にやっと辿り着いた。集団を撮るのが天才的にうまい。その教科書のよう。始終瑞々しく、ラストも素晴らしい。これなくしてタルコフスキーパラジャーノフなかったのではないか。

 

 

無意識に奴隷になってしまうこと。日常的に抑圧感や屈辱感に苛まれて生きていると別の場所で全能感や平衡をとろうとする。

 

 

 

 

 

結局、人は「楽しい雰囲気」の中でしか育ちません。大人も、子供も。楽しみがあるからこそ高いハードルにも挑戦しようとするのです。生徒たちを見ていても、研究会で成長していく若手を見ていても、このことを実感します。楽しさと成長が融合された瞬間を実感したとき、人はそれを「充実」と呼びます。堀裕嗣

 

 

 

どうしても読みたい文章が手に入らない(国立国会図書館でないと・・)ことに苦悶しつつも、よろこばしい体験かもしれない。そんなことがあり得るんだ。またそう思わせる文章があるのだ。

 

OPAMで公開中の畠山記念館名品展の国宝の藤原佐理筆「離洛帖」が今日までということで慌てて駆けつける。
 
今まで印刷物としては幾度も目にしていたが、本物は全然違った。本物を見ないとこの迫力は体感できない。墨の渇潤から濃淡、運びの速度、そして自由と自在。息をのんだ。ほかにも渡辺始興の「四季花木図屏風」の緑の深さとか秀吉が捨てたのを拝領した利休の茶杓銘「落曇」の絶妙な位置にある節とか感動してしまい何度もうろつく。
 
それにしても畠山一清翁のような数寄者とはなんだろうか。ある種のノブレス・オブリージュのようなものかもしれない。財や権力によって独占するのではなく、公開して皆を楽しませるという精神。しかとわたしにも届いたと言いたい。
 
同時併設の「アートで小旅行」が思いのほか良くて、特に正井和行氏の「翳(かげり)」と「茫(はるか)」の精神性に心打たれた。われ発見す。
 
 

 

 

シンポジウム「対話空間のオラリティ」は学びが多かった。石原孝二氏の「対話が人権の尊重を可能にするのではなく、 人権の尊重が対話を可能にする」とか斉藤環氏の「言語は否定神学的であるがゆえに、あらゆる場所に「逆説」 を見出し、「真理としての症状」にフェイクの要素を注入する」とかすごかった。わたしは哲学対話にながれるあの独特な(人に変容や気付きをもたらす)時間と空間を見極めたいのだ。だから哲学対話以外の場での、他ジャンルの対話に顔を出して学びを得たい。

 

齋藤環先生の新刊『イルカと否定神学(仮)』が楽しみです。

 

生成AIによる「オラリティ」の説明

オラリティ(orality)とは、即興的で一過性の話し言葉や声の文化を意味する概念です。一般にはリテラシー(literacy)に対比される概念で、リテラシーが文字の文化や書き言葉の世界を意味するのに対し、オラリティは声の文化を意味します。

 

私が朗読とか、声の文化にこだわってきたのが、ここにして繋がったような気がする。岡田斗司夫は人生60代からが伏線回収と言った。

 

確定申告終了。ほっ