対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

声から声へ、肉声の文化を

 

 

前回の哲学カフェに参加された20代のAさんから感想をいただいたので、本人に了解を得てここでシェアします。
 
 
「テーマについてみんなで考えていくこと自体ももちろん楽しかったのですが、答えのないこと・思考を深めたところで利益につながるか分からないようなことに誠実に向き合った先に何か得るものがあるんじゃないか・よりよく生きていけるんじゃないかと信じている人(と私は感じました)がこんなにいるんだなあという点でも希望を感じて、前向きになれた貴重な時間でした涙。次回も楽しみにしています!ありがとうございました〜(^_^)」
 

 

土曜社から出ている整体対話読本というシリーズが好きでよく読んでいるのだけど、この『お金の話』というなかの対話で、川﨑智子さんという整体の方が「言語の中にも気があって、話を聞く姿勢の中にも気があります」と言っていて、これは哲学対話のことだろうと、はっとするものがある。
 
同じ哲学対話、哲学カフェといっても(わたしは自分が主催するだけでなくいろんな方の哲学対話に参加しているが)、それぞれずいぶんと体感が違うのに驚かされる。同じ空間であってもグループ分けされてもそのグループごとにまったく別物になる。そして、わたしが「いいな」と感じられた哲学対話はそう多くはなかった。(つまり、つまらないと感じた。)
 
じゃあ自分が主催しているのは、どうなんだろうと問えば、つまらなかったときもあるし、おもしろかったときもあるが、ただ他との違いはと問えば、「わからなさ」を多く含んでいると言えると思う。わからなさに開かれているというのか。もっと書くと変な話になるが、言葉だけを信じていないみたいな、ソクラティク・ダイアローグなど言葉に依れば寄るほどに、そこから遠ざかるというのか、聞くという声、聞かれる声だけになっていく。わからないとは哲学対話で語られる「わからない」ではない。そこには何があるのだろう。夢のような時間や空間がある条件の下に生まれているのではないか。無意識に任せたい意思がわたしにはある。対話、空間の、オラリティ。
 
 
 
 
・精緻な「意識的方法論」に拠る研究は堂々たる正面玄関を持ちながら、その向う側が意外に貧しい場合も皆無ではない。
 
 
・もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのであるまいか。
 
 
・翻訳が大きく無意識に根ざすものであることは私も詩翻訳体験にもとづいて何度か述べたことである。
 
 
・世界は固定的な記号の集積ではなく、索引の余韻と兆候の余韻の明滅するところではないか
 
 
 
 
驚異的なことを言語化していて戦慄するばかりだ。
 
 
 
・言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し。晴朗化する。夢が覚醒後にたどる変化を思い浮かべてみればよい。夢は言語化されると、単純化し、一般に圧力が減り、人に語れるものになる。いわば、通分される。中井久夫
 
 
この手前にとどまる哲学対話?
この過程の哲学対話?
 

 
 
 
フィルムとデジタルの違いのような?
 
夜の語りと昼の語り。
 
写真と絵画。
 
D・リンチの映画のようなでありたい哲学対話。
 
沈黙が図で語りが地。民主主義以前の。
 
他人にアドバイスしてはいけないというルールがあること。
 
勇気を持って手を挙げること。
 
 
総体にいくらかでも似たことばにとどかなくて,とどかないということばにもとどかないもどかしさをもかさねためながら,数万かい4つかどは通りかかられた.
 
『累成体明寂』黒田夏子
 

 

 
 
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昨日の暖かい夜だったので表に出て、腕を旋回させて背骨を意識して動かしたら、「別のもの」が動いていく(抑圧の蓋がとれた、詰まりがとれた)感覚がして、こういうことが言語化できた。こういうこと(身体性)を対話の場と結びつけたいのだったわたしはまだ全力で球を投げていない、加減している。
 
 
自分が哲学対話を初めて十年が経って、哲学対話に関する本はたくさん出版されたけど、まだまだ語られていないことがたくさんある。というか、僕が知りたいことはそんなことじゃない、、むしろ整体だったりシュタイナーや書の滲み、中井久夫の言葉やオープン・ダイアローグなど他分野から啓発を得ることが多い。たぶんこれは自分が記述していかなくてはいけないと思う。ひっくり返ったそのときはたぶん哲学対話から遠く離れたものになっているかもしれない。でもそういう孤独な場所で書かれたものでしか、人に響くことはないだろう。