対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

京都の微熱

 

 

小倉紀蔵の『京都思想逍遥』と鷲田清一の『京都の平熱』を少しづつ読む。

 

それぞれのパッサージュが交錯する。鷲田氏が平熱なら小倉氏は微熱だ。

 

 

今年も暑かった。だが、祇園祭宵山には、毎年かならず、でかける。なぜか?こんなに暑い夜に、なぜわざわざ大群衆にもみくしゃにされながら三条、四条、五条の大路、小径を歩かねばならないのか。わたしにもなぜだかわからない。ただただ、歩きたい一心のみがあるだけである。強いていえば、滅びの感覚か。この世界がいつか滅びるであろうという強烈な感覚が、祇園祭宵山、宵々山にはある。おびただしいひとの海。蒼然とした光りと古い楽器のコンチキチンという音。わたしはそれらに晒された道を歩いて行くと、滅びの感覚にこの身体がとらわれる。ああ、滅びる。真夏の夜に、京都のまんなかで、滅びてゆく。ああ。この感覚がたまらなく、神経中枢を刺戟する。

 

小倉紀蔵『京都思想逍遥』

 

 

 

 

 

 

 

今日にあったしあわせだったことをピックアップして書くしあわせ日記をいつか訪れた武雄の図書館で買っていたこと忘れていて取り出す。

 

 

今日が良き日だったのかそうでなかった日なのか容易には判断しづらいものがあるが、苛烈だった日にも平穏だった日にも手応えというか世界と交わった実感が雇われを辞めてフリースクールを始めてから多く感じられるようになったのはよかったと思う。

 

 

これと似たもので甲斐みのりさんの「すきノート」というのも持っていて、自分の好きを埋めていくもので、こういう自分を見返すようなものがそれこそ好きだったりする。

 

たとえば、万年筆で書かれた文字とか、メロンソーダの色とか、ねこの寝ているときの吐息とか、ミツバチの羽音とか、さっきまで生意気だった子どもの「バイバイ」と手を振る仕草とか、根拠のない自信とか、呼び捨てで呼ばれることとか、知らない道を通ることとか

 

 

七夕

 

こどもたちと七夕を飾る。思い思いの願いを書く。願いは天へと向けられるのはなぜか。農を営む人は地に祈ることもあるのだろうか。

 

 

このブログでかつて書いた田中小実昌の父、田中種助の立ち上げたアサ会を訪れた記事が今でも激しく読まれることがあり、なにかしら応答が来ることがある。こういったブログのアーカイブ機能の良さは他の発信メディアより自分にしっくりときている理由になっている。

 

読書会のためにケズナジャットの『異言』を読みながら、プロテスタントにおける「異言」の聖性についてのエピソードがあり、田中小実昌の『アメン父』を思い起こしたのだった。

 

kannawadokusho.hatenablog.jp

 

 

東京都美術館マティス展と東京都現代美術館ホックニー展へはなんとか行けないものかとおもう、