二重の国で歌声が はじめてやさしく 永遠となる ——『オルフェウスへのソネット』リルケ
2023.7.14
いただいた葡萄とじゃがいもに見惚れて写真を撮る。
物質についてわたしはなにも知っていない。
いもの球体の向こう側、まわりこむ奥行きはどうなっているのか。
物が在るというのはどういうことなのか。
なにもわからない。歌についてなにも知らないように。
なぜ人は歌うのか。
勉強をしながら、Fくんは歌う。
ぼくもつられて歌う。
○○先生と初めて名前で呼んでくれてうれしい。
ビールがうまい、と感じられるのは、わたしの場合いつもじゃない。
気温とか喉の乾きとか疲れとか気分(解放感)とか、
いろんなものが良いあんばいで重なったときのみ、うまく感じるようだ。
今日のビールはそんなうまい日だった。
今日も汗をかきながら温泉の清掃をする。
今は小学校から中学校まで様々な学年のこどもたちに夜勉強を教えているのだが、
当然準備に時間をかけて教える内容を予習、整理する。
算数、理科、社会、国語・・・
あるときこれらが壮大に繋がっているのを感じる。
小学5年のあれが、中学2年のあれにといったように。
わたしはこうして「学び直し」ができて、とてもラッキーだ。
多くの大人たちも学び直しをした方がいいと思う。
教科学習の背景には、こども時代には感じ得なかった世界への畏敬があり、
倫理が横たわっているように思う。
だからこその学ぶ権利であり、学ばせる義務なのだと思う。
教育は否定であり、ある種の自己暗示でもある。
そのままの君でいいとか、あるがままの君がいいといった標語にはいまでは若干
懐疑的だ。
荒川修作のつくった三鷹天命反転住宅に住んでいる人がこう言った
「この部屋ではかなしい気持ちになれない」
そんな散文が書きたいと思うし、そんな場所をこどもたちに提供したい。
知人がspotifyを聴いているというのを聞いて、わたしも番組を持ちたいと思う。
かなしい気持ちにはなれない音声メディアはいかにして可能か。
もちろん馬鹿騒ぎするというのではなく、静寂の中でマティスの絵画のようなことが
できるのだろうか
たとえばホーソーンの短編小説『ウェイクフィールド』のような。
『ウェイクフィールド』はこんな話だ。
ある夫婦がロンドンに住んでいた。仮にウェイクフィールドと名づけられた夫は、ある日旅行に出かけると偽って、自宅の隣の通りに家を借り、妻にも知人もそのことを知らせないまま、以来20年もの間これといった理由もなしにそこに住み続けた。そしてとうに死んだものとして彼の遺産が整理され、妻もとっくに寡婦としての生活を受け入れていたころに、まるで一日出かけていただけといった風情でひょっこり帰宅し、以後は愛情深い夫となって残りの人生を暮らした。wikiより
教養の使い方をこんなふうに