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7月の哲学カフェ大分を開催しました。
シネマ5でのトークショーの影響もあり、多くの初参加の方が来てくれました。
ご参加ありがとうございました。
今回のテーマは「助けてと言える社会はどうしたら実現するの?」でした。
始めにみなさんから、このテーマを受けて浮かんだ問いを聞いていきました。
・助けてと言うのに勇気がいるのはなぜ?
・醤油の貸し借りがなくなったのはなぜ?
・「助けて」と言えるときと言いにくいときの違いは?
・助けが必要だけど助かりたくない人が多い気がする。
そういう人に対してどんな扱い方が正しいのか?
・助けてほしいと助けたいの中間がなにか必要ではないのか?それが何なのか?
・助けてといえる適格な人をどう選ぶのか?
・私は助けてもらいたくないのだが、それは何故か?
・そもそも自分が何に苦しんでいるのか分かっているのか?
・助かる人(場所)はあるのか?
・「助けて」までがまんする。その限度が自分で分からない。仕事をする上でどのくらい助けてを言っていいのか?
・納得いく「助けて」はあるのか?
・助けてと言えるのに必要な力とは?社会とつながる力、言葉・自己コントロールする力など
・「依存する」ノットイコール「頼る」?どこが違う?
・「助けて」は濃密なコミュニティの復活により救えるものなのか?
・内容によって「助けて」と問う人を選ぶし、自分の思うようにならなくてもOKでは?
・Big,Black dog syndrome 私たちは助けを求めるにふさわしい姿をしているだろうか?
・自分のこと好きですか?自分のご機嫌をとるときどんなことをしていますか?
・他者へのそして自分への想像力はどうすれば養えるのか?
・助けて!と言えるには?尊厳、負け?プライド、競争?
・人にかけていい迷惑とかけたら悪い迷惑のちがいは?
・日本人(論)的な「洗脳」から抜け出るにはどうしたらよいのだろうか?
・私自身「助けて」となかなか言えない。どうしたら実現できるのかわからない・・
・日本における、あるいはあなたにおける助けての「内容」は何ですか?
・本当に助けてほしい時ほど声を出せなくなるのはなぜ?
(わたしにはその人の意見よりも問いの方が、それぞれの固有の生が滲み出ているように思えて、より対話をしたいという気持ちが強くなりました)
それぞれの問いを整理しながら、対話を進めていきました。
迷惑をかけるとなんなのか、海外では助けてと言いやすいけど、日本ではそうでないのはなぜか、社会の余白に助けてと言いやすい空間が生まれる、助けてと言いやすい人言われやすい人になる、言葉の問題、助けてではなく「手伝って」なら言いやすい、そう言えるようになる訓練が学校でも必要なのではないのか、りゅうちぇるさんの絶望にどう届くのか、、助けてと言えなかった、言葉、人の助けてを受け入れるのはリスクがある、解決可能なこととそうでないこと、自助・互助・公助、プライベートの重視と助けてと言える共同体の消滅、自分で解決してしまう、親密な関係の人がいること、お互い様、この哲学カフェのようなゆるやかに人と人とがつながる場所の重要性、助けられる者と助ける者が対等な関係であるかどうか、助ける技術がいる、やさしさと想像力と寛容性、アジール(避難所、駆け込み寺)の復活が必要、濃密なコミュニティの再建にもチャレンジしたらどうか?
などなど、あっという間に2時間が過ぎて終わりました。
この後2次会、3次会とつづき・・
ご参加ありがとうございました。
今回このテーマにしたのは、数年前に「自助」を政府が言い出したことに危機感をもったことや、今の日本の社会設計に「助けて」が入りづらく、それがどこからくるのか哲学対話したいと思ったこと、また2019年に哲学ツーリズムと称して大阪の西成をフィールドワークしたときに、エリア全体が「助けて」が言える(言いやすい)空間ができていたことに感動があったからでした。西成(釜ヶ崎)は「助けて」を大阪的ユーモアやアートに変換していました!
私自身は、教育(自分の弱さを語れること、哲学対話など)や余白のある社会(寛容ややさしさ、想像力、哲学カフェなどのコミュニティ)が大事だと今回学びを得ました。
対話はつづきます・・