対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

地の果て、世界の果て、言葉の涯

 

 

 

野草社という名前の出版社から出ている山尾三省の『火を焚きなさい』を読む。

 

 

 

いろりを焚く 山尾三省

 

家の中にいろりがあると

いつのまにか いろりが家の中心になる

いろりの火が燃えていると

いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり

自然の暖かさが広がる

家の中にいろりがあると

いつのまにか いろりが家の中心になる

いろりの火が 静かに燃えていると

家の中に無私の暖かさが広がり

平和が広がる

それは ずっと長い間 僕が切なく求めつづけてきたもの

家の中にいろりがあり

そこに明るい炎が燃えていると

いつのまにか その無私が 家の中心になる

 

 

 

 

 

***

 

十数年前に能登半島を旅した。半島の先(珠洲市)に進むにつれて、なにかが(なにか?)純化されるような思いがして、地の果て、世界の果ての、空気が薄いような、際を車で走った。その海岸で見た夕日は忘れ難いものとして刻まれた。太陽は日本海のその先の水平線にいつまでも静かに残っていた。こういうのを浄土と呼ぶのかもしれないと思いつつ、古代の人はこの先になにを想像していたのだろうか。言葉の届かない場所。

 

 

 

この丸窓は地震で潰れてしまったようだ

白米千枚田は残ったようだ




 

フリースクールのみんなと書き初めをした。
わたしは「冬寂」という言葉を選んだ。「冬寂」という言葉は日本語の辞書にはない。
 
「冬寂」は、サイバーパンク小説の金字塔とも呼ばれるウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に登場するAIの名前(認識記号)で、ウィンターミュートという原語のルビが日本語訳にはふってある。
 
最初読んだときに「冬寂」という日本語も「ウィンターミュート」という原語も途方もなく美しく感じ、記憶に残り続けた。しかもそれがAIの名前なのだ。1984年の小説である。
 
書にすると「冬」の字は書きやすいけど、寂はむずい。でも寂聴とか寂光院とか寂びとか、寂のつく字が好きである。何度でも書きたい。
 

 
 
12/7は日出のkamenosさんで開かれた大分で小学校教員をされている脇こなぎさんの「オランダ教育研修報告会」へ参加。運河には安全のための柵はなく、美術館のフェルメールの絵画もガラスケースなどにおさめられていず、間近に見られるようにむき出しになっている。そういう土壌、マインドから生まれる教育は日本とは違う。方法論やうわべだけを変えていっても、根付くものにはならないだろうし、日本の教育の全てがおかしいということもないだろう。自分とは一体なのかという問いが根底に常にあるというのが興味深かった。
 
 
 

いつきても清々しい景色が見られる日出のKamenos. 店主さんとここでも哲学カフェができたらという話をした。