対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

Comme à la radio ラジオのように

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ラジオの事前収録をしました。

OBSのビルは197号線沿いにあり、いつも素通りしてばかりだったけど、

昨日は初めてスタジオ内に入りました。

 

ディレクターのイイクラさんと対話形式で進行して、

自分の活動の思いや趣旨を語りました。

イクラさんもまた僕と同じく純文学を愛する方で、

世代は違えど、共通の話題が持てて楽しい時間でした。

本番前のイイクラさんとの雑談の方が、いいことを言っていた気がしますが、、

やはり本番となるとどうしても「構えて」しまいますね。。

それでもイイクラさんはいろいろと引き出してくれたことと思います。

普段僕はファシリテーターとして、人から話しを引き出したり、

聴く側の立場にいることが多いので、「引き出される」という体験は慣れないもので、

自分の活動の社会的意義を改めて考える機会になりました。

 

かける音楽は、話の内容が硬質に傾いている気もしたため、バランスをとるべく

柔らかめのポップスを提案したのですが、グレン・グールドを推してきたため、

ディレクターの判断に任せることにしました。編集も楽しみです。

 

イクラさんとは企画の段階から数え切れないほどのやりとりをメールで行い、

2ヶ月間紆余曲折を得ながら、今の形になった。

イクラさんは僕が過去出会った人の中でもかなりの文学通の人で、

(Lineのアイコンが大江健三郎の原稿!)今後いろんな展開が考えられるので、

また一緒に何か企画できれば楽しいし、大分の文化に色を添えられると思う。

 

ラジオというメディアには憧れがあったので、

こうして出演できて、しかも自分のためだけの枠をとっていただいて感謝です。

ラジオの可能性については、Voicyなどのアプリも含めて、

個人的なメディアの展開方法として注目しています。

内容を「コンテンツ」と呼ぶ風潮には抵抗がありますが…

 

 

***

このブログに書いてある文章を朗読する時間もあり、

お恥ずかしいですが、聴いていただけると嬉しいです。

1時間のCMのない枠です。読書会の様子も流れます。

 

 

ラジオの出演情報 9.13

僕の活動に注目していただいていたラジオのディレクターからお声がかかり、活動を紹介する形でラジオに出演します。ぜひ聴いてください。聞き逃した方は1週間以内でしたらradikoというアプリで聴けます。県外の方も会員であれば聴けます。音質はFMの方が良いですね。

 

番組タイトル:「OBS Special Program ・注文の多い文学カフェ」

日時:913日(月)20時~21時(CMなし)

 

AMラジオ周波数

1098kHz 中 1557kHz

1557kHz 佐 1269kHz

1557kHz 湯布院 1098kHz

 

FMラジオ周波数:93.3MHz

 

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中の人(撮影イイクラさん)

 

【開催案内】第六十四回 別府鉄輪朝読書ノ会 9.26『李陵・山月記』

 

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『李陵・山月記中島敦新潮文庫

 

 

九月の別府鉄輪朝読書ノ会の案内です。

 

九月はピース又吉さんもオススメの 中島敦『李陵・山月記』(新潮文庫を読んでいきます。『山月記』は教科書以来の方も多いはず。漢文調のリズムが美しく凛々しい、習うより慣れろで読んでください。収録4作品すべて読んでいきます。できれば、新潮文庫版でお願いします。

 

内容紹介 (Amazonより)

中島敦は、幼時よりの漢学の教養と広範な読書から得た独自な近代的憂愁を加味して、知識人の宿命、孤独を唱えた作家で、三十四歳で歿した。彼の不幸な作家生活は太平洋戦争のさなかに重なり、疑惑と恐怖に陥った自我は、古伝説や歴史に人間関係の諸相を物語化しつつ、異常な緊張感をもって芸術の高貴性を現出させた。本書は中国の古典に取材した表題作ほか『名人伝』『弟子』を収録。

 

課題図書:『李陵・山月記中島敦新潮文庫

日 時:926日(日)10:00-12:00

場 所:別府市鉄輪ここちカフェむすびの

ファシリテーター:シミズ

参加費:¥1,200円(運営費、むすびのさん特製の軽食、ドリンク代含む)

定 員:10名程度(要事前申し込み、先着順)

備 考:課題本を事前に読んで参加してください。

      9/23木までにお申込みください。  

 

↓参加のお申し込みは以下ホームページから。

参加のお申込み - 大分・別府鉄輪朝読書ノ会

 

 

もうギターは聞こえない

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2002.10 Seoul 屈曲し続ける迷路のような路地を疲れを知らぬまま歩きに歩いた


 

 

 

 

すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

 

『春宵十話』岡潔

 

 

 

 

一週間 8.23-29

 

 

月曜日

吉村萬壱先生とツイッターでやりとりする。別府にまた行きたいという言葉をいただいて、コロナが落ち着いたら何か企画したいなと思った。

 

 

ころがっていた映画「ゆきゆきて神軍」を見る。もう6回目くらいだろうか。見るたびに突っ込みどころ満載でゲラゲラ笑ってしまう。究極の緊張が笑いを生むという。でも狂っているのは奥崎ではなく、我々社会の側なのだと今では思う。

 

 

壇蜜さんのラジオが好きでよく聴いている。声のまろやかさと文学的あまりに文学的な会話、そして語彙の豊かさに癒されもする。「言祝ぐ(ことほぐ)」という言葉を普通の会話のなかで自然に使われたのを聞いたことがない。

 

 

 

火曜日

生涯教育の学習をしているときに教授が紹介してくれた動画があって、それは30年くらい前のもののVTRでぼろぼろなのだけど、北九州の穴生公民館で開かれている「青春学校」というもので、それは戦後、貧困などの理由で満足に教育を受けられず、日本語の読み書きができないハルモニたちが主役で、老年になって日本語を学ぼうとする彼女ら、小学生をやり直す彼女らを追ったドキュメンタリーで、オンラインの授業中なのに涙がとまらなかった。また彼女らを支援するボランティアの若い学生たちも、なぜハルモニはこんなに学ぶのかということを学ぶのだった。 

 

ブラジルの教育学者フレイレ(識字教育者でもあった)の「意識化と対等な対話」やオルテガの「永遠の微調整」といった言葉が飛び交う生涯学習論が自分としては一番興奮する。自分の行っている哲学対話や読書会もまた民主主義の学校として、寛容な社会を築くための中間団体として永遠の微調整を行っているのだという自負をもて。

 

 

北九州の工藤会のトップに死刑判決が出たとの報。

 

 

哲学者ジャン・リュック・ナンシーが死んだとの報。人は死んでも言葉は残る。棚に並んでいる『無為の共同体』を久しぶりに取り出してみる。

 

かろうじて理解できる箇所を抜き出してみようとするも、まだ自分には早すぎてやめた。積読の棚にそっと戻した。

 

 

 

水曜日

晴れた。暑かった。久しぶりに蝉の声を聞いた。車に乗ると車内がむわっとして、久しく忘れていた夏の鬱陶しさを思いだした。

 

 

先日のソーシャルカフェで20代の頃、友達と青木ヶ原の樹海に遊びに行った話。20代前半の頃は、明日富士山行こうかとぱっと思いついたら、友人に話して特に目的もなく、ぱっと車を借りて出かけていった。今はこんな軽さはない。お金は20代の頃よりあるはずだが、軽さはどんどん失ってしまっている。どこそこに行きたいという気持ちはあっても、実際に軽く行ってみるということが少なくなった。それはコロナとは関係ない。

 

 

髪を切った。髪を切るって切ったときが完成形なのだろうか。僕はその新しい髪型に慣れるのに1週間くらいかかり、鏡の中のイマジナリーとしっくりくるそのころに髪型が完成すると思っている。

 

 

ブックオフで鎌田正著、大修館書店の「新漢語林 第二版」を220円で購入する。状態も良く、書き込みもなく、なんでこんなに安いのか分からない。僕はけっこう漢字力には自信があるのだが、こういったのは読めない。レファレンス演習での事前課題の一つ。

 

「満天星」「酸漿」「蘿蔔」「紙魚

 

最後は本好きなら知っているかも。

 

 

 

 

 

木曜日 

夏。暑さ。

 

 

図書館へ調べものと頼んでいた書籍を受け取りにいく。

 

 

別府温泉与謝野晶子の歌碑があるというが調べても調べても分からない。司書さんに頼んでいろんな資料を出してもらった。スクラップ・ブックに別府市内の歌碑を写真にまとめて貼り付けてあるものまで。でも与謝野晶子の歌碑はなかった。

 

 

結局別府温泉(竹瓦温泉)周辺を歩いてみることにした。風俗街でもあるこの周辺は路地が毛細欠陥のようになっていて魅力的だが、与謝野晶子の碑が似合う場所ではない。

 

それとは別に別府について書いた織田作之助徳田秋声についての流川文学を記念する碑があった。ずいぶん隅に追いやられているような感じだった。そのことをツイートしたら、ずいぶんバズってしまった。文アル(文豪アルケミスト)というゲームを愛好する方々のようだった。知らずに聖地を紹介してしまったかもしれない。

 

 

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金曜日

夏、暑さ、クーラー、氷。

 

麦茶に氷を入れると急激な温度変化にピキッという音がなる。夏の音。

 

 

ツイッターを見ていたら、ある小説家が自分の作品の書評に対して抗議していた。その作品もその書評も読んでいないのだが、自分の作品の要約、あらすじ紹介に間違いがあるとのことで怒っているようだ。作家はあらすじは正確に、批評はご自由にと考えていて、評者はあらすじも批評も自由であると考えている、その違いのよう。

 

事実(あらすじ、要約)の部分と、感想をきちんと分けるのは基本だとしても、小説においてこれがどれほど可能なのか分からないし、長い時間をかけて読書会をしている自分にとっては、あらすじは全然重要ではない。

 

たぶん、たぶんだが作家は評者が自分の作品を斜め読みされた(きちんと読まれていない不誠実さと自分のすでに持っている考えに引き寄せて作品を曲解する)ことに怒っているのだと思う。そうならないために、自分は読書会を通じて作品と粘り強く向き合っているつもり。

 

(ややこしくしているのはこの作品が「私小説」であることのようだ。)

 

しかしきちんと読むとは何だろうか。正確な要約はそもそも可能なのだろうか。

 

例えば、私は『野火』も『夏の花』もあの長大な『神聖喜劇』も戦争反対をメインのモチーフにして書かれているとは思わない。でもそう読む人があってもいいとは思う。

 

 

この問題はやっぱり両者の書いたものをきちんと読んで考えたいと思う。

 

 

土曜日

昨日の日記の作家と評者の論争のつづき。作家の書いたものと評者の書いたものを比べてみたが、評者は致命的な読みの間違いをしていると思った。自分の意見を裏付けるために、その小説を援用したといってもいい。ざっくりと書くと、小説は介護によって老夫婦の仲が深まったという話を描いている。評論は介護によって妻は夫を痛めつけたみたいな真逆の読みをしてしまっている。この小説の面白さは介護によって、介護前には失われた均衡を介護によって取り戻したことにあると思うし、その報われ、その救いを書いているのだと自分は読んだ。(でも斜め読みするとここを逃してしまうと思う)

 

ただ私小説であるということで、その曲解を許さないというのはまた違うと思っていて、私小説を書くにはやはり間違って読み込まれる可能性も考えて書く覚悟がなければいろんな読みを「被害」として作者は受け止めてしまうだけになってしまう。

 

 

でも僕がこの小説の中で一番気に入ったところは、介護云々ではなく、父親の最後を看取るか看取らないかの間の緊張した時間のなかで、ある賞の選考を任されていて多くの作品を読まなければいけないときのこんな情景であった。

 

 

 

作業が終わると、もっとぼーっとする。Kindleに手を伸ばし、手塚賞候補作の漫画をぼんやり読む。『カフェでカフィを』が好きだなぁ。どんなときに読んでもほんのりした気持ちになれる漫画なのだな。

 

桜庭一樹『少女を埋める』

 

 

 

ツイッターでつながりのあった方から、好きな邦楽を語る会みたいなネット上のコミュニティに招待され入った。(招待はずいぶん前にされていたらしく今日になって気づいた)。みなさん好きな邦楽について思い思いに語っていて、ネット上ながらも良い雰囲気が伝わってくる。コミュニティの空気は、不思議とそのコミュニティを立ち上げた人の空気に似る。類は友を呼ぶということなのだろうか。自分の主催している読書会や哲学カフェの空気が良いものであるといいな。

 

 

夜は「悩める教師たちのオンライン対話」を開催する。2ヶ月ぶりくらいの開催。今回は「学歴は不要か?」について対話をした。最近の大学生は学業に忙しいらしく、そういえばモラトリアムという言葉も聞かなくなったなあと思った。あとは今の学生が学問や恋愛に費用対効果(コスパ)やリスク管理といった言葉を持ち出していることにショックを受ける。

 

 

 

日曜日

今日は別府鉄輪朝読書ノ会の日。OBSラジオの収録もした。ラジオの素材としてどこまで使えるのか分からないけど、会の雰囲気は十分伝わるものが録れたのではないか。ディレクターさんに声が良いと褒められる。導入部のナレーションもお任せするとも。

 

声というものにその人の生きてきたレコードが刻まれたりするのだろうか。僕はいろんなファシリテーターをしてきて、最近自分は参加者の意見を聞きたいと言うより声を聴きたいんだと強く思うようになった。響きといってもいい音楽的ななにか。

 

 

夜は小説家保坂和志さんの「小説的思考塾」をオンラインで視聴する。Zoomなのに、保坂さんの語りが小説やエッセーと変わらない文体で楽しかった。ラジオでもこういう緊密さとゆるさが同時にあるようなものを目指せるといいな。

 

 

小説的思考塾のテーマは「本の読み方」だった。(またそれは同時に「小説の書き方」でもあった。)なぜ人は小説を読むとき、または書くときに「構えて」しまうのか。小説然としてしまうのか。いかにそういうところから逃れるのか。小学生のように世界と接続できないか。小説を読むとは、読んで明日も頑張ろうと思ったりするのではなく、そういった社会生活とは別のもがあることを確認する為にあるのだ。

 

 

蝉の声が徐々に遠くなっていく。昼と夕方でもその遠ざかりが感じられるし、八月が過ぎていくことによっても遠くなっていくのを感じる。

 

 

 

 

万人に共通なひとつの尺度は、つねに存在している。

しかし それぞれの人間にはまたかれ固有のものが授けられている。

そして人はそれぞれ おのれの進みうるところへ進み 行いうることを行うのだ。

 

ヘルダーリン『パンと葡萄酒』手塚富雄訳(河出書房)1967年

*『無為の共同体』の冒頭に掲げられた言葉

 

 

 

【開催報告】第六十三回 別府鉄輪朝読書ノ会 8.29

 

 

 

言葉以前の悲しみを、私は誰かに知って貰いたかったのだ。

 

桜島梅崎春生

 

 

 

 

 

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八月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。

毎年八月は戦争文学をとりあげているのですが、今回選んだ作品は、

講談社文芸文庫梅崎春生桜島・日の果て・幻化』でした。

 

 

はじめにみなさんの読んだ全体的な感想を自己紹介をしつつ、話していただきました。

 

・軍隊生活のつらさから解放されて書いた

・繊細な感受性で書かれていて、愛おしい

・夢うつつのなかにあるリアリティ

・この作品を漂ってみようと思った。どの作品も同じ世界が続いている。

ロードムービーのよう。お酒が飲みたくなる小説

・処女作と遺作を読むことで作家の成長を辿れた

 

つづいて、それぞれの作品について深掘りしていきました。

 

・無為に過ごす、自堕落に過ごすことの豊かさが書かれている

・でもその無為の陰には女性の支えがあるのではないか

・自由なんだけど空しい。自分が何者か決まっていないことの苦しさ

・理由がよく分からない涙がたくさん流れている

・なぜ人間はこんなことをするのかという問いがある

・ゆるゆるな時代でも、戦争がないことの方が良い

・人は流されて生きている

ヘミングウェイ第二次世界大戦のことは書けなかったが、梅崎春生は書いた

 

 

こうして箇条書きで書いていても、この対話の場の空気感やエッセンスを描写するのは難しいですね。。何が話されたかということよりも、語られる言葉の周りにある、言葉にならない感情とか、うまく言えなさだったり、沈黙とかそういったものが、この読書会の一冊を巡っての重要なものとして体験してもらえると主催者として嬉しいなあと思います。

 

 

むすびのさんからの提供ドリンクは、作品にも出てきた梨を素材にしたドリンクでした。また軽食は、坊津はかつおがよく獲れるということで、スマガツオのフライでした。お味噌汁は戦時を思わせる簡素な薄味でサツマイモが入っていました。大変美味しかったです。

 

 

今日はOBSラジオさんの取材もあり、いつもと違う雰囲気でしたが、新鮮味もあり、みなさんいつも以上に話されていたような気がします。取材のご協力ありがとうございました。

 

 

次回九月はピースの又吉さんも絶賛の『李陵・山月記中島敦新潮文庫を読んでいきたいと思います。教科書以来という方もぜひ再読をオススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【開催報告】悩める教師のためのオンライン対話 8.28

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悩める教師のためのオンライン対話を開催しました。

 

今回選んだテーマは「学歴は不要か?」でした。

 

学校教育の変革といったことを考える際に、いい大学を出て、いい会社に入るという考え方を変えていかないと、変革は起きないという前提で始めました。

 

初めに参加者のみなさんに学歴についての考えを聞きました。

 

・学歴は必要。生きることのスキルにつながる。それでも何かに没頭することの重要さ。

文化資本と学歴の関係について。可視化しにくい。

・名も無い凡人が市場価値を高めるために必要。それを武器とする。でもそもそも何故学歴が必要か考えられていない。学校教育と学歴は別でなければいけないのではないか。

・時と場合による。どうやったら幸せになれるかを考えること。着地点として医者や弁護士など学歴が必要な場合がある。学歴が無視できない側面がある。

・中学高校大学というカテゴリーでの学歴とどの大学に入ったかいう意味での学歴、大学院の修士や博士といった学歴を分けて考えた方がいい。

・社会がいろいろと変化しているのに、未だに古い価値観の教育ママがいることの不思議。

・職業選択に必要なものとしての学歴がある。自分が何をしたいか考えるべきだった。

・学歴は選択肢の幅を広げられる。古典的な極端な教育ママが今でもいることの驚き。

 

学歴の必要性は認めつつも、それだけではないといったところ対話を深めていきました。

 

・大学に入ってからが大事。そこから教養や個性を磨く。

・大学受験勉強に特化した教育は、教育本来のあり方を歪めるという論調がある。

・受験勉強で疲弊して、大学に入ってからの勉強が厭になっている。

・どう生きたいのか問う。

・大学はそもそも研究の場ではなかったのか。就職予備校化している。

・高校は大学受験予備校化している。

・お金と学問が結びついてしまっている。

・人文学の軽視、予算の削られ。実学の重視が世界的な流れ。

・大学は本来真理を追求する場のはずだが、、日本は大学というものをよく理解せずに輸入した。

・日本の近代化においてそもそも東大は官僚の養成機関として始まっている。

ベーシックインカムを導入すれば、学歴偏重社会は変わる?

・学歴ではなくコネやツテで成立している世界がある。

・大学で身につけるスキルは大局観を養える。アタリがつけられる。

・今の大学生は忙しい。モラトリアムなんてもはやない。

・YouTuberに学歴はいらない?

・恋愛でも学問でも何でもコスパの時代。

・大学や学問がビジネス用語で語られる時代。

リスク管理できないことを恐れる。主体性や対話がなくなっている。

・日本の一律入試での大学入学は平等。世界はそうではない。

 

 

 

僕自身は大学受験勉強と大学に入ってからの勉強を切り分けてたというか割り切っていたので、大学に入学してから燃え尽きたということはなく、大学で哲学を学んだことはとても楽しかったし、やりたいこと没頭したいことが他にもたくさんあって、それができたので恵まれていたと思うが、今の大学の状況はそうではないのだろうと想像すると、大学とか学歴の意味を再度捉え直さないといけないのだろうとなと感じました。

 

 

話は尽きませんでしたが、タイムオーバーということで、このあたりで終わりにしました。また視点を変えて学歴や大学について問いたいなと思います。

 

 

ご参加ありがとうございました。

 

 

【開催案内】悩める教師のためのオンライン対話 8.28

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好評の悩める教師のためのオンライン対話を開催します。

 

「悩める教師のための〜」とありますが、教師ではないけれど、一緒に考えたい方の参加もOKです。広く学校や教育について考えましょう。(僕自身も教師ではありません。)

ファシリテーターのコメント
今回のテーマは「学歴は不要か?」です。学歴社会が変わっていかない限り、日本の学校教育は変わらないという意見を多く聞きつつも、4人の子供を東大理Ⅲにいれた母親が賛美されたり、学歴や偏差値に変わる別の価値を提示できずにいます。学歴社会に賛成派も反対派も広く対話をして、考えていきたいと思います。

 

事前に以下のサイトをご覧ください。

佐藤亮子 - Wikipedia



岩手高校将棋部vs京都大学 しばき甲斐があるな - YouTube

岩手高校将棋部(45分程の動画です)

 

 


○テーマ:学歴は不要か?

○日 時:8月28日(土)20:00〜21:45
○方 法:Zoomを使用します。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)

○備 考:開催前日までにお申込みください。

 

 

Black girl combing her hair

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2002.10 Seoul  未知の国の朝の出勤風景のなかでわたしは彼らと同じ方向を歩いた。

 

 

 

行動の中心であるべきさまざまな人物が、諸事物が出現する多元的な質の差異のうちに入り込み、それらの事物と相互に浸透し始めるような世界は、笑いに満ちている。

 

小津安二郎の家』前田英樹

 

 

 

 

 

一週間(8.16-22)

 

 

 

月曜日

雨がつづく。誰のためだか分からない雨がつづく。 

 

 

プルーストを読む生活。とつぜんグッとくるような描写に出くわす。これがたまらない。

 

 

 

下働の女中がーあたかも真実の勝利を対照的に一段と目立たせる誤謬のように、フランソワーズの優越さを自分ではそれと知らずにひきたたせながらーママの言葉によればお湯にすぎないコーヒーをいれ、ついで私たちの各部屋にぬるま湯とさえもいえないお湯をもってあがってくるあいだに、私はすでに本を手にして私の部屋でベッドに寝ころんでいたが、その部屋は、透き通ってはかなく消えそうな内部の涼しさを、ほとんどとじた鎧戸のそとの午後の太陽から、ふるえながらまもっていた、その鎧戸のところでは、それでも日ざしの反映が、その黄色いつばさをなかに入れる道をやっと見つけ、鎧戸の桟と窓ガラスとのあいだの片すみに、まるで羽を休めている蝶のように、じっととまっていた。本を読むのにやっとのあかるさであった、そしてそとのすばらしい光の感覚は、ラ・キュール通でカミュが埃だらけの箱をたたく音からしか私につたえられなかった(カミュはフランソワーズから、私の叔母が「休息していない」こと、音を立ててもいいことを知らされていた)、しかしその音は、暑い天候のときに特有のよく反響する空気にはねかえりながら、真赤な火花の星屑を遠方までとびちらせているようだった、それからまた、そとのすばらしい光の感覚は、私の目のまえで、小さな楽団を組んで、夏の室内楽のようなものを演奏している蠅たちによってしかつたえられないこともあった、この蠅の音楽は、人間がうたう音楽の一節 ー好季節に偶然きいたのが、つぎにきくときにその好季節を思いださせるー のように光の感覚を呼びおこすのではなくて、もっと必然的な一つの絆で夏にむすびついていて、快晴の日々から生まれ、そうした日々とともにしかふたたび生まれることはなく、そうした日々の本質の少量をふくんでいるのであって、われわれの記憶に単に夏の映像を呼びさますだけではなく、夏が帰ってきたことを、夏が実際に目のまえにあって、あたりをとりまき、直接に近づきうることを確証するものなのである。

 

失われた時を求めて Ⅰ 』第一篇 スワン家のほうへ 第一部 コンブレー

マルセル・プルースト 井上究一郎 訳(ちくま文庫

 

 

 

 

 

この一文一文の長さよ。複数の時制が混じりあって記憶の様々な層が一文のなかに華やかと言いたくなるほどに振り蒔かれていて、唐突に否定形が入ったり、現実と願望があったり、意識の流れとはまた違うエクリチュールの快楽がある。

 

 

 

 

ところが、ある地点に辿り着くと、不意に一挙に霧が晴れるようにしてくっきりとした風景が、変転を重ねながらも目の前に浮かび上がり、それまでの難路の労苦を癒してくれると同時に、ぐっと前進に弾みがつき、歩行が楽になる。

 

平岡篤頼路面電車」あとがき

 

 

 

 

火曜日

雨がつづく。カエルが家の壁に張り付いていた。ご機嫌だ。

 

 

注文していたサイドテーブルが届く。

短いネジと長いネジを使って、自分で組み立てる方式のものなのだが、

取説には短いネジと長いネジを間違わないで下さいと書いてあり、

この両者のネジの長さの違いが微妙な程なのだけど、

間違えるなよというのが前振りだったわけでもないが間違えてしまい、

長いネジがテーブルの天板を突き抜けてしまった。

間違えるとどんな目に合うかまで書いてくれるとよかった。

 

 

 

水曜日

雨が続く。

 

 

 事故物件を紹介するサイトの、ある事故物件にこんなコメントが書かれていた。

  • 心理的瑕疵あり。女性の留学生入居後、現れた憑依される容疑だ。最後に先生を見つけた法師、そしてその学生も換えた住所、ことは終わった。

     

翻訳機による直訳体のような感じで文意が通じないところが多いが、物語が生まれる瞬間を捉えている。 

 

 

 

木曜日

少し晴れた。

 

Google Scolar という学術論文を中心に検索できるエンジンを知った。サブタイトルが「巨人の肩にのって」とある。野球の巨人とは関係ない。そう考えると、チーム名を「巨人」とした感覚について思う。

 

 

アウトプットはインプットの5倍以上の負荷はあると思うが、マゾヒズム的にここに快楽を見出したい。

 

 

金曜日

少し晴れた。湿度は高い。

 

 

毎日大分のコロナ感染者の最高数値が更新される。カミュの『ペスト』のように或る日突然消えてカタルシスが訪れたらなと無力な夢想をする。

 

 

なんにせよ企画を考えるときは「この程度でよい」というふうな考え方はできない。予算があろうとなかろうとある一定以上のクオリティを出さなければ関わる意味がない。

 

 

 

 

かれらがその後を生きのびることができたのは、六十八年が理論だけではなくて詩をもっていたからだと、といわれよう。

 

カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

 

 

 

土曜日

午前中は先生に質問をする。質問って、相手に分かるように準備するとその時点で答えがわかったりする不思議さ。問いの中に既に解が潜んでいる。

 

 

 

 

この野原が道に向って両方からゆっくり降りて来る形で低い丘陵に囲まれていて森もあることまでがそこの道を歩いている男の都合を考えてのことだったかどうかは解らない。その方々に森が見えるだけでなくて一本立ちの大木が道に影を投げていることもあってその下を通る時に男は森の中にいることを思った。

 

『一人旅』吉田健一

 

 

 

 

音というしずくに内側からうつる世界のなかのものと人間。だが、音がうつしているのは、それだけではなかった。


音がめざめる前の音は何だろう。音というこの空間はどこからでてくるのだろう。見えない世界、音の裏側にある何もふくんでいない空間、要素をもたない空の集合。そこから音がひらくとき、それは窓になって、世界と世界でない場所の間にひらく。

 


カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

 

夜はオンラインでソーシャール・カフェを開催する。

テーマは「幽霊」について。

幽霊という存在をそもそも認めるのかどうかというところの議論は置いたままで、

進めていったのが面白かった。

幽霊を見たけど信じていない、幽霊を見ていないけど信じている、

世界の原理のなかに幽霊はいるのかいないのか。

死者と幽霊の違いは?

 

 

なんだか疲れていて、ニンニクオニオンベーコン・コンソメスープを作って寝たら、ずいぶん回復した。ここ最近の湿気にやられているのかもしれない。 大学のオンライン受講生も体調を崩している人が多い。

 

 

 

日曜日

朝は少し眠たかったけど、オンラインで本読みに与ふる時間を開催する。

私は図書館で借りた、イーハトーブ温泉学』岡村民夫(みすず書房を読む。

宮沢賢治の文学を「温泉の文学」として読もうとする試みでたいへん刺激的だ。

 

目次をいくつか抜き出してみる。

 

 

賢治と湯治 温泉のフォークロア 温泉の地学 温泉鉄道の夜 観光的想像力 リゾートとしての「イギリス海岸」 ランドスケープデザイナー 温泉遠足の系譜学 ほとばしる温泉的想像力 温泉の訣れ 未来形のノスタルジー サウイフ温泉ニワタシハナリタイ 究極の霊泉セラピー

 

 

 

大分経済の中心、百貨店のトキハでクラスターが起きたことを知る。

本丸が落ちた感。

 

 

 

夕方は三田文學主催で小説家吉村萬壱先生のオンラインで小説の話を聞く。テーマは「小説を書く生活とは。」。吉村先生の話は数年前別府大学で開催された文学イベント以来で、今回もたいへん知的な刺激に充ちた話だった。

 

メモした言葉たち

破獄した男が牢獄に毎日味噌汁をかけていったように”現実”というものに自分の言葉をかけていくという感覚、絞り出さないと出てこないものがある、絶望が希望になるときがある、ハイパーグラフィアみたいな、垂れ流していく、”男”という淀みになる、奈良美智のあの少女はすべての世界の扉を開く鍵である、小説を書き始めるときはまず小説って何だっかなから始める、とりあえず何かを描写してみて、すごく嬉しくなってもっと書こうと思う、手を伸ばしていくと違う手触りのものに触れる、訳し直しではなく訳し重ねている、途中でなにかにすがりつきたくなるところを縋り付かない等々

 

最後に書きあぐねている人たちに向けて、吉村さんはこう言った。

 

 

自分の肉筆文字を好きになってください。そういう訓練をしてください。

吉村萬壱

 

 

 

 

書くという行為はフィジカルに属するのだと改めて思った。頭が導くのではなくて、手が導く。画家のようでもある。

 

 

 

 

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも。まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

 

中井久夫