対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催報告】第九十二回 別府鉄輪朝読書ノ会 1.28

 

 

 

 

どんな暗闇の中でも目を閉じるという行為にはそれなりの意味があるのだ。

 

『ネジまき鳥クロニクル』村上春樹

 

 

 

今年最初の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。

今回とりあげた作品は村上春樹ねじまき鳥クロニクルの第1部から3部でした。

過去この読書会で取り上げた作品のなかでももっとも長大でしたが、

時間を割いて読んできていただきました。

 

 

全て読んでもわからないという意見や性描写に戸惑われる方も多かったのですが、

これはこうなのではないのか、というみなさんの考えを集めながら、

それでも重なる部分重ならない部分もあり、また時代背景への理解もありながらも、

僕としては自分の「小説観」に合わないと、「わからない」と言う風になるのかな

とも思いました。

 

作者もおそらく作品内のすべてをわかっていて書いているわけではないので、

読む人が「わかる」あるいは「わからない」というこうとがどういうことか、

わからないと作品を楽しめないのか、別に考えてみたいテーマだなと思いました。

 

 

この日のむすびのさん特製メニューは、登場人物の加納クレタからクレタ島のお料理を提供いただきました。タラモサラダのホットサンドとムサカと呼ばれるグラタンでした。とても美味しかったです。ありがとうございました。

 

 

今回は満員御礼の会でした。みなさん、ご参加ありがとうございました。

 

 

次回二月はジョージ・オーウェルの『動物農場』(ハヤカワepi文庫)を読んでいきます。

amzn.to

 

哲学対話のその後で、(参加された方の感想)

 

 

 

レヴィナス著『存在の彼方へヴァンセンヌ中納言さんのアマゾンレビュー

コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、人間が生きていくうえで避けられないことであり、またごくありふれたことでもある。しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、大変な覚悟が必要である。人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。相手にコンタクトをとることは、自らを危険に晒すことであるともいえる。人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。主体が他者によって形成されるといった議論もまた、示唆に富んでいる。確かに訳はよくない。拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。数ページ日本語にしてみたが、こなれない。そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね)と考えている私にとって、もっとも推したい本である。

 

 

 

 

ここで哲学対話をしたい!改修されるかもしれぬ、、大正6年建築 上臼杵駅の木造駅舎と待合室。たとえばテーマは「待つ」とか「古いものの価値とは」とか。なかにはマイクロライブラリーがあって、本を自由に借りられる。そして返す。駅を使わなくても、ここに来る理由ができる。

 

 

今は近所の大衆温泉と駐車場が工事中で、そこにあったコミュニティ(集まり)が消滅していて、自分だけがこの地域に取り残されたような、でもとても静かなので、いろんな内省には適している日日をすごす。

 

 

哲学対話に参加するということは、終わりなき対話の始まりでもある。むしろ終わってからが本番かもしれない。哲学対話のその後をここに書きたい。多くのひとに知ってほしい主観も混じったエピソードです。

 

 

・あるとき、自分が開催した哲学対話のその後の話を聞く機会に恵まれた。ある学校で哲学対話を開催した後日談。「学校は必要なのか」という(生徒から出された問い!)をテーマに学校で!哲学対話をした。多くの生徒は「学校は将来のために必要だ」という意見だったが、ある一人の生徒が口ごもりながら、ためらいながら、息を絞り出すように、手にしたマイクに力をこめて「学校に行きたくないときもあります」と勇気ある発言をした。勇気があるというのは、その学校は1学年が10人以下の小さな学校で、つまり幼稚園くらいからずっとみんな一蓮托生のような関係性で過ごしてきて、行きたくないと発言することはそんな「仲間」たちを否定することにも繋がりかねない危険な発言だろうからだ。でもその生徒Xさんは本音を公的な場で語った。今まで誰にも言っていなかったことを公にした。その日からXさんは変わった。そのままみんなと校区内の学校へ進学するのではなく、校区外の自分の行きたい学校に通いたいと猛勉強をはじめた。当初は成績的に厳しいと思われたが、先日合格しましたという連絡をいただいた。その話をお母さんから聞いたときは私は泣きそうになった。

 

 

☆(ここで大事な点が4つあって、一つはファシリとして「学校は将来のために必要だ」という以外の意見が出やすいように場の安心・安全性をつくろうとし、本音が出やすい場作りに努めたことと、二つ目はそれに呼応したのか保護者の方の意見で、私は子どもの頃学校は嫌いだったという意見がけっこう出たことがXさんの背中を押したのではないのかと想像する。そして三つ目は何よりXさんの意見を否定する者はいなかったし、みんなしかと受け止めたこと。さらに四つ目としてこれは特殊な事例ではなく大人にも子どもにもある変容だということ)

 

哲学対話の効用とか効果などというのはケチくさい話なのでしたくないし、むろんXさんの合格と哲学対話は遠い聯関かもしれないが問うことの力や自分の話がフラット(ジャッジされず)に聴かれることの力やその勇気に周りが応答することの重要性を示すのに、これほどのエピソードはないだろうと思われるのでここに書き記しておきます。つまり変容の契機が子どもにも大人にも開かれているということです。それは哲学対話が論理的な思考や問題解決能力を育んだり、民主主義の土台をつくろうとしたりすることよりも大切なことだと個人的には考えています。それもとても大事だけど。(たぶん主流の考え方ではない)まずはいかにして自分自身であるか。

 

 

そして先日開催した哲学カフェの感想を本人の了承を得てここに掲載します。哲学対話、哲学カフェってどんなものなの?と聞かれることは多いのですが、まずは参加してみるのがいいと思いますが、それが怖いとか面倒だという場合は、主催者ではなく、参加された方の感想を聞くことが一番参考になるかもしれません。そこには楽しさだけでなく、苦しさもあるし、加害や受苦の危険性もある。でも冒頭のレヴィナスの著作の書評に記されているように、やはり他者と関わる道を閉ざしたくないと考えています。

 

 

***

Aさんの感想

 

土曜日はありがとうございました。

久々に、哲カフェで疲れました。
きっと、皆さんそれぞれの悩みからくる混乱の「熱気」に当てられたのでしょう。
心地よい疲れです。
 
土曜で「体感」した言葉の数々。
それまでなら、傷ついた、不愉快に感じた、「善意」を、やすやすと跳ね返せる(気にならなくなる)のだと思います。
読書と同じで、後から血肉となって、効いてくるのだと感じます。
時間差がありますよね。
 
結果的に、9つの問いに対して、クロスオーバー的な対話をすると言う、試みはとても良かったです。
オシャレに言えば、フリージャズのような、和風で言えば、「闇鍋」のような(笑
参加者達のアドリブ演奏が、不思議と一つの楽曲になっていたように感じました←気取った言い方ですねw
 
本来、哲学とは「型に嵌らない」営みだと感じてます。
その醍醐味を感じられた、3時間SPでした。
ありがとうございました。

 

 

***

Bさんの感想

 

昨日は哲学カフェ&ファシリテーターお疲れさまでした。

いつものように哲学カフェに参加した後の習慣で帰りの電車から今までずっと、自分の発言や昨日のあの人の発言はこういうことだったのかもと、ひとり哲学カフェじゃないですけどずっと考えを巡らせています。

去年の1年間は自分が抱えているその時の課題や問題があって、それに対する解決法、、、とまでもいかずとも何かしら足掛かりが欲しくて哲学カフェする、その1年間だった気がします。個々の哲学カフェの参加に関しては満足することがとても多かったです。


昨日も言いましたけど、ある程度の共通前提の共有だったり、抽象的な思考力、もっというと「他者と対話するという態度を持っている人」との対話場所は社会にとても少ないので、、、(モヤモヤが残ったり、他者の発言で傷つき、その後、大きな混乱が起こったとしても)

私は哲学カフェは「人生のスクランブル交差点」のようなものと考えています。お互いの素性を知らない人がテーマにひきつけられたり
個々の問いをもちより、集まって、お互いの人生が少しだけ交差するような場所。対話が終わった後は解散して、それぞれの人生がまた続いていくような。それはとても対話の環境としては居心地のいい場所ですね。

ただ、その一方で私個人は副作用というか、参加しているときの良い対話者でありたい自分と普段の利己的な自己とのギャップ、哲学カフェというある種、理想的な対話の場所にいる自分と普段の生々しい生活の中に身を投じている自分のギャップ。


他者と分かり合えるかもという可能性の場所と分かり合えるどころかお互いがひどく傷つけあう現実との往復におけるギャップみたいなものにもがき苦しんだ1年でもありました。私は自分の実存のために哲学カフェに参加していたともいえるしちょっと肩に力が入りすぎていた(笑)ともいえるでしょう

そういう意味では昨日の哲カフェでテーマを決めるときにクマさんが「今日はテーマを一つに決めずに面的にいろいろなテーマをめぐって話していきます」
というようなことを言ったと思うんですけど、私はその時に「あっ!!私が本当に今日、話し合いたいのはまさにこういうことなのだ!!」と内心驚きました。

私が抱えていた「自己と分かり合えない他者」「生きるとはとても個別のことなのだから皆違う世界に生きている」


まさに私は意識的、無意識的にそのことについて語り合いたいと思っていた。。(不思議なことに哲カフェではこういうシンクロがたまに起こりますね・・・なぜでしょうか・・・)

対話の中身としてはどんどん下に深まっていくいうより縦横無尽に広がっていったなあ、という印象がしました。
人間の思考は個人⇔他者、男⇔女、大人⇔子供、日本⇔海外など2項対立で考えがち(人間の脳、容量の限界?)ですが昨日の対話は
それを克服する端緒を少し見た気がします。

本当はSDについても書こうと思ったのですが、頭から煙が出そうなので今日はここまでにします(笑)またSD会に参加した後にでも感想を送りますね。

それではまた哲学対話の場所で語り合いましょう!!

 

***

Kさんの感想

 

初めて哲学対話に参加しました。このところ仕事がお休みになって何に混乱しているのかは分からないけどなんだか混乱していて、けれど、本日参加してみてもっと混乱、混迷してみようという気になって、自宅に戻って思いっきり一人で混乱のドツボにはまれると思うと嬉しくて幸せに感じるのでした。ありがとうございます。

 

 

 

【開催報告】哲学カフェ大分 1.20

 

 

1月の哲学カフェ大分を3時間バージョンで開催しました。

 

いつもは私が問いやテーマを立てて、それに集うという形をとっていますが、

今回はみなさんから問いを募って、その問いを味わいながら、哲学対話するスタイルに

挑戦してみました。

 

みなさんが挙げてくれた問いはどれも味わい深く、個々の実存の実感のこもったもので

また問いの背景となったエピソードも興味深かったです。

 

ここから通常こども哲学などでは、多数決により問いを一つに絞って考えていく

のですが、今回は捨てるに忍びない思いと、それぞれの問いの相互の聯関を見つつ、

全ての問いを対象に、試みに面として対話を進めました。

 

トピックはあちこちに揺れ動きながらも、他者の問いへの配慮もあり、

いろんな声の肌理、質感、強弱、勢い、苦しさと楽しさ、断定や戸惑い、

ためらいもあり、みんなで問いの森の深みへと潜っていったように感じました。

 

結論めいたものはないのですが、いろんなレベルでの(哲学カフェに集う他者や他者一般、私を愛した他者など)他者について考えられたように思いました。

 

ただ隠れていた前提や思い込みに気付いていく過程としての哲学対話までは

いかなかったかなという反省もあり、広げながら深めるにはどうしたらいいのか、

ファシリテーターとしての課題です。

 

参加した方からは、3時間はあっという間でしたとか、このスタイルが楽しかったと

いう声があがりました。ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

あげられた問い

1.善意とはなにか?

2.共感はした方がいいのか?

3.不幸とはなにか?

4.私の混乱とはなにか?

5.家族の絆は大切か?

6.優しさとはなにか?

7.偽善は悪いことか?

8.オンとオフは分ける必要はあるのか?

9.衰えを受け入れることとは?

 

次回は2月17日(土)15時〜18時の予定です。

 

 

地の果て、世界の果て、言葉の涯

 

 

 

野草社という名前の出版社から出ている山尾三省の『火を焚きなさい』を読む。

 

 

 

いろりを焚く 山尾三省

 

家の中にいろりがあると

いつのまにか いろりが家の中心になる

いろりの火が燃えていると

いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり

自然の暖かさが広がる

家の中にいろりがあると

いつのまにか いろりが家の中心になる

いろりの火が 静かに燃えていると

家の中に無私の暖かさが広がり

平和が広がる

それは ずっと長い間 僕が切なく求めつづけてきたもの

家の中にいろりがあり

そこに明るい炎が燃えていると

いつのまにか その無私が 家の中心になる

 

 

 

 

 

***

 

十数年前に能登半島を旅した。半島の先(珠洲市)に進むにつれて、なにかが(なにか?)純化されるような思いがして、地の果て、世界の果ての、空気が薄いような、際を車で走った。その海岸で見た夕日は忘れ難いものとして刻まれた。太陽は日本海のその先の水平線にいつまでも静かに残っていた。こういうのを浄土と呼ぶのかもしれないと思いつつ、古代の人はこの先になにを想像していたのだろうか。言葉の届かない場所。

 

 

 

この丸窓は地震で潰れてしまったようだ

白米千枚田は残ったようだ




 

フリースクールのみんなと書き初めをした。
わたしは「冬寂」という言葉を選んだ。「冬寂」という言葉は日本語の辞書にはない。
 
「冬寂」は、サイバーパンク小説の金字塔とも呼ばれるウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に登場するAIの名前(認識記号)で、ウィンターミュートという原語のルビが日本語訳にはふってある。
 
最初読んだときに「冬寂」という日本語も「ウィンターミュート」という原語も途方もなく美しく感じ、記憶に残り続けた。しかもそれがAIの名前なのだ。1984年の小説である。
 
書にすると「冬」の字は書きやすいけど、寂はむずい。でも寂聴とか寂光院とか寂びとか、寂のつく字が好きである。何度でも書きたい。
 

 
 
12/7は日出のkamenosさんで開かれた大分で小学校教員をされている脇こなぎさんの「オランダ教育研修報告会」へ参加。運河には安全のための柵はなく、美術館のフェルメールの絵画もガラスケースなどにおさめられていず、間近に見られるようにむき出しになっている。そういう土壌、マインドから生まれる教育は日本とは違う。方法論やうわべだけを変えていっても、根付くものにはならないだろうし、日本の教育の全てがおかしいということもないだろう。自分とは一体なのかという問いが根底に常にあるというのが興味深かった。
 
 
 

いつきても清々しい景色が見られる日出のKamenos. 店主さんとここでも哲学カフェができたらという話をした。
 

2024 謹賀新年 書くことと世界の始まり(墨と万年筆とポメラ)

 

 

宋坑端渓硯で墨を擦って龍の字をたくさん書いた。墨おりがよく気持ちいい。年末に風蘭さんの書道教室で古典の臨書を始め、対話をし、賀状でもたくさんの墨字を書いた。それまで書くことにいささかの苦痛があったが、いまは楽しい。墨で書けなくても、パイロットのLIGHTIVEという万年筆と出会い、とてもしっくりくる書き味で(やっとしっくりきたものと出会えた!)、日記帳やノートに言葉を書きつける日々。書くために書く。意味ではなく。文字そのもの、筆触そのものと向き合っている。

 

 

 

そしてこれも昨年末に念願のポメラDM250を購入した。

〈書く〉に特化したマシン。毎日のように書いている、いや打っているという感覚。打つように書きたい。書くように打ちたい。ドラムのような身体性でもって。

 

 

ながいあいだ失語の如く自分の言葉を失っていたように思う。リハビリのようにブログを書いたり、小説家や哲学者の言葉を引用したり、読書会や哲学対話もそうかもしれない。闇から手探りで異邦人のように日本語を求めた。とくに現代詩はわたしを慰めた。

 

 

今月の自分が主催する読書会と他人が主催する読書会のための読書を年末から続けている。一つは村上春樹ねじまき鳥クロニクル』、もう一つはソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』。偶然にも二つとも他者の苦痛をテーマにしている。戦争でミサイルが飛び交い、災害で生き埋めになり、事故で炎に包まれる。そんな他者の苦痛を前にできることはなんだろうか。遠い映像から呼びかけられるものに対して。
 
 
タルコフスキーノスタルジア」のあの蝋燭のシーンを思い出す。広場を蝋燭の火を消さずに往復できたなら(往復!)世界を救済できると信じた男。
 

 

 

火男火賣神社に参拝する。歩いて20分くらいだが、鉄輪からはずっと坂道なのでけっこうきつい。いい運動になる。うららかな冬日のなか黙々と歩くのが気持ちよい。汗さえかく。わたしとわたしに関わりがあるひとたち、そして世界の平安と健康を祈る。
 
 
 
 
今年は書きたい。闇をつかむように。世界が苛烈であればあるほどに書く。打つように、筆触の音を聴いて。それは物質的に。そして本を読み、感想を交わし、対話したい。もっと魂を打って。哲学対話も解放への、あたらしい世界への始まりのきっかけになるはすだ。そこにむかって走るだろう。
 
 

カサヴェテスは決して空を見上げない

 

 

 

〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。

 

『最後の親鸞吉本隆明

 

 

 

 

 

お母さん、彼らは詩を書くのです。パウル・ツェラン

 

 

 

 

 

除夜に書く。

 

・来年は小説を書きたい。人間と光についての小説。太陽と眼。顔の彼方。十字街頭。少年たち。日本語。失語。書くこと。書。原稿用紙とポメラと万年筆。多文化。理解とは別の仕方で。

 

 

・来年への〈哲学対話〉の飛躍の足がかりになるような出会いが年末に集中してある。有り難い。おもしろがって、自分が一番たのしく続けていれば、何かしらあかるい未来へと繋がっていく。点から線へ。でも面へは遠い。自分の理想とはほど遠い。1%くらいだ。

 

 

・今年の大きな出来事を振り返ると、別府市社会教育からの依頼で公民館で哲学対話が3回シリーズでできて公民館についてみんなで考えられたこと、シネマ5の「ぼくたちの哲学教室」上映に伴ってトークライブができたこと、別府大学の先生方と哲学対話での繋がりができたこと、小学校で哲学対話ができたこと、書を学び始めたことがあげられる。仕事が人を大きくする。舞台が人を大きくする。だから僕をもっと使ってほしいと思う。

 

 

・哲学対話というのは教育ではなしに、ある種の芸術として捉えた方がいいような気もしてきた。ラップとか奏でる音楽のような芸術。みんなそれぞれの楽器を鳴らして。

 

 

ヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクト・デイズ」は音楽は流石に素晴らしいが、〈孤独〉のない映画で半分は失望した。いろんな意味で。スレイマンの「天国にちがいない」やジャームッシュの「パターソン」にある〈孤独〉。だいたいそんな簡単に空を見上げてもいいのか・・唐突にカサヴェテスの「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」のラストシーンを思い返した。空ではなく血のついた手を見て終わったあのシーンの〈孤独〉を。

 

 

・読書会のため、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を再読する年越し。壮絶すぎて頭が真っ白になるが、今こそ読まれるべき小説だ。ソンタグのように他者の苦痛をどう考えるのか。ほぼ満席になっていて来年の開催が待ち遠しい。

 

 

在庫の切れたカードのデザインを一新する。名刺のデザインは奥が深く、試行錯誤しているうちに「これしかない!」という芯に突き当たる。つまりコミュニケーションの本質が。

 

 

 

 

それでは、みなさまよいお年を。

わたしはこれから今年最後のすじ湯温泉の清掃バイトに行ってきます。

 

 

 

【開催案内】哲学カフェ大分 1.20

 

 

セメント町かやく舎で珈琲とUEMURA BREADさんのシュトレン

 

 

◆「哲学カフェ大分 1.20」  ※夜ではなく14時からの開催です

今回は当日みなさんが考えたい問いを集めて、その中から多数決してひとつ選び、即興的に哲学対話します。終わった後はメタ哲学カフェをして、振り返りたいと思います。

 

〈だいたいのスケジュール〉

・みなさんから問いを集め、問いを味わい、問いを決める(35分)

・哲学対話をする(90分)・途中休憩(5分)

・哲学対話を振り返る、哲学対話とはなにか(40分)

 

○テーマ:「当日決めます」

○日 時:2023年1月20日(土)14:10-17:00 ※夜開催ではありません。

○会 場:大分市

ファシリテーター:shimiz

○参加費:1,000円(学生さん500円)

○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)

○備 考:開催前日までにお申込みください。

 

※ 2月は17日(土)15時~18時の予定です。

 

dialogue-oita.jimdofree.com