対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

One More Light

 

 

 

 

基本的に受け身を取れるのは、受け身を取れるように投げているからですよね。

 

光岡英稔

 

 

 

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一週間

 

 

月曜日

夏至の日。晴れた夏至の日というのはあまり記憶にない。せっかくならと太陽を浴びたくて、無意味にあてもなく近場をドライブする。窓から入ってくる風がすばらしい。

 

 

新しい活動拠点となるハウスの床と壁を選ぶためにカタログを業者さんから預かるものの、なかなか決めきれないものがある。ハウスの名前をなににしようか。登記簿によれば、ここの正式な地名は片仮名でウカリユというもの(さすが別府鉄輪!)、ウカリユハウスと仮に名付けておくか。ウカリユの家とかCASA ukariyuでもいいかもしれん。でも学舎のイメージを付与するならSCHOLE Ukariyuとか。スコーレは古代ギリシャ語。元々は暇や余暇を意味する。でもたんなる余暇ではなく、精神活動や自己充実にあてることのできる積極的な意味をもった時間、また個人が自由または主体的に使うことを許された時間のことである。いまの公教育の学校となんとかけ離れたことか。

 

 

 

猿や熊が街に出没する。

猿や熊を追い返す。熊を殺す。

もともと猿や熊が住む場所にわたしたちは住ませてもらっていると考えよ。

 

 

 

火曜日

朝から解体の音がする。鉄輪の象徴のひとつでもあったヤングセンターが解体中だ。壊す音というのは、意外に多彩で音楽的でつい聴いてしまいがち。破壊せよ、とアイラーは言った。

 

 

梅崎春生の小説を再読する。微細な描写のひとつひとつが精神に直結し、世界を構成する。わたしの心象風景に近しく感じる。

 

 

代替肉について、ラジオで流れる。代替肉はスーパーで売っているのを見たことはないが、主流になるといいなと思った。人工肉というのはネーミングの問題かちょっとと思うが、ソイミートというのは健康的で良いではないか。

 

 

自分には悲観的なところもあるが、最終的には(根拠のない)「なんとかなる」という感覚というのか人生観みたいなものがベースにはあって、これはとてつもなく大きな特性で、それがどうやって培われたかはわからないが、きっとなんとかなるのだ、すべて。

 

 

水曜日

気持ちの良い朝がつづく。

ボーナスタイムか。

 

 

 

アナキズムとは、ヒエラルキーと国家に対して常に抵抗し、人に余裕を与え、そして助け合おうとする不断の努力が験されるものなのだ。

 

『もう革命しかないもんね』森元斎

 

 

 

自分が読書会や哲学対話で目指しているのは最終的にはアナキズムかもしれんと思いながら読む。

 

 

 

アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想だ

 

『方法としてのアナキズム鶴見俊輔 

 

 

 

 

 

 

私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです。

 

ヘンリー・D・ソロー「原則なき生活」

 

 

 

ソローのように生きたい。ソローになりたい。そろっと。

 

 

木曜日

映画を見るために街へ。

 

永楽庵のお蕎麦は美味しかった。つねに店主が入れ替わり立ち替わり来るお客さんと矢継ぎ早にしかも料理をしながら話していて、それも上っ面だけの会話ではなく、なんというか一つの技芸に達していた。

 

 

シネマ5bisで「ファーザー」を見る。認知症の主人公を主観とした映画。認知症の世界は孤立しているので、周囲の人がその「世界」に付き合うことの重要さが痛いほど分かった。しかし「映画」ならばもっとその「世界」への肯定があってもいいはず。啓蒙映画に堕しているとも思った。でも丁寧な造りで好感は持てた。

 

 

一緒に見てくれた方とねこのいる喫茶店で映画の感想など語り合う。ねこがわたしの膝に何度ものる。「川瀬敏郎 一日一花」をお貸しする。「一日一花」は震災から一年366日毎日花を投げ入れたてまつった記録の写真集である。一頁一日、短い著者の言葉も添えられ、どの頁も静謐でありながら力強い。手渡された彼女は頁をぱらぱらと捲り、ある日付のところで手が止まってしばらくその花を眺めていた。その日付は偶然にも私の誕生日だった。彼女は私に誕生日はいつですかと尋ねた。私はこの日ですよと、その開いた頁を指さした。彼女は驚いて何度もその日付を私に確認した。彼女の誕生日も同じ日だったのだ。誕生日が同じということも稀有なことだが、それが「一日一花」を媒介にして見出されたというのがとても良かった。その瞬間、世界の秘蹟に触れたように。

 

 

 

 

 東日本大震災からひと月後、テレビのニュースを見ていたときでした。画面は剥きだしの大地に草が萌え、花が咲く、被災地の遅い春を映していましたが、私の心をとらえたのは、花をながめる人々の無心の笑顔でした。

 じつは震災のあと、私は生れてはじめて花を手にすることができずにいたのですが、その笑顔にふれて、むしょうに花がいけたくなり、気づけば「一日一花」をはじめていました。生者死者にかかわらず、毎日だれかのために、この国の「たましひの記憶」である草木花をたてまつり、届けたいと願って。

 それらの花をどのように伝えてゆけばよいか思案していたとき、「インターネットで配信してみませんか」と新潮社の菅野さんから提案を受けました。当初は戸惑いましたが、最適のようにも思えてきて、新潮社「とんぼの本」のホームページでの配信が決りました。

 私は「一日一花」を、花による曼荼羅と思い描いていました。あらゆる花を手向けたいとの心願がありました。とうてい私ひとりの手には負えません。気心が知れ、花をよく知る川島南智子さんと、花フジの藤井一男さん壽子さんが心強い味方でした。なかでも川島さんと壽子さんは、まさに身を賭して山野を走りまわり、花を届けてくれました。二人をつうじて多くのいのちと出逢いました。また森田美保子さんも、庭の花を惜しげなく切ってくださったうえ、花の名も御教示いただきました。ほかにも何人もの方が「一日一花」を知って花を届けてくださり、何よりの励みとなりました。撮影場所を提供していただいた木村宗慎さん、カメラマンの青木登さん、『今様花伝書』以来編集に携わってもらっている菅野康晴さんにはひとかたならぬお世話になりました。

 多くの方々の力添えがあって、三六六日、花と向きあうことができました。終えてみると「花を賜った」という気持でいっぱいです。心より御礼申上げます。



『一日一花 川瀬敏郎』 「あとがき」より 

 

 

 

金曜日

気持ちの良い朝がつづく。今日は解体の音もない。

台風が近づいているのか。

日曜日の読書会は雨だな。

 

 

ネットの記事などの「ここからは有料です」というのがどうにも苦手だ。

 

 

走る。一週間ぶりのせいか、ちと重い。でも、晴れがましい。

 

 

カントの「理性の公的使用」という概念が好きすぎる。たとえばケン・ローチ監督の「わたしはダニエル・ブレイク」という映画を例に説明してみる。心臓に持病があり医者から働くなと言われているダニエルという爺さんがいる。ダニエルは働けない間の失業給付金をもらうために福祉事務所に行く。しかし福祉事務所に勤める役人たちは非効率で型通りな対応しかしない。ダニエルには給付金の許可がなかなか下りずに困窮してしまう。ついに怒ったダニエルは告発のため役所の壁に抗議の落書きをする。役人たちの型通りの仕事は一見すると「理性の公的使用」に思えるが、カントはこれを「理性の私的使用」だと断ずる。あくまで自分の属する組織のためだけに使っているからだ。これに対してダニエルの義憤に駆られた行動や組織の規則に抗った役人の行動は「理性の公的使用」となる。公と私をこのように捉えたし。

 

 

 

土曜日

しずかな朝。曇り。太陽はない。

 

昨日の月は赤かった。「赫い」という字を当てたくなる。

 

鉄輪もずいぶん人手が増えたように思う。

 

長い昼寝をねこと一緒にした。

 

 

 

夜はオンラインで「もう革命しかないもんね」の刊行記念対談を視聴する。著者の森元斎さんと哲学者の中村昇さんのアナキズムをめぐっての対談。ホワイトヘッドやグレーバーの話のなかに、「ベースライン・コミュニズム」、「相互扶助」といった言葉が出てくる。はじめアナキズムの概念がわかったようでわからなかったが、ブッダってアナキストっぽいという言葉が出た時に腑に落ちた感があった。

 

 

 

 

日曜日

予報は覆り、雨のない朝となった。今日は月に一度の別府鉄輪朝読書ノ会の日だった。

参加者の方々と韓国文学『菜食主義者』を読んだ。

 

 

以前哲学カフェで「癒し」をテーマにして対話したときに、Sさんは癒しは断絶のなかにあると仰っていて、それが自分でもわかったようでもあり、わからないようでもあったのだが、この作品のあるクライマックスを事例に、そのことをSさんはもう一度反芻してこの読書会でも語り、わたしにも腑に落ちるものがあった。本来わたしの開催する読書会や哲学カフェ、シネマカフェ、ツーリズムなどは別々に存在するもので、それらを横断して語ることはないけど、ほんとうはどこかで繋がっているし、それを見出してくれるのはとても嬉しい。こっちの鈴の紐を引けば、遠くに下がっている鈴が鳴る、みたいな響があると思うので。シンクロやセレンディピティの生まれやすい余白が十分にとってあるつもり。なのでたくさん参加してください!

 

初参加者の方もはじめは敷居が高いと思い参加を躊躇していたが思い切って参加してみて楽しかったとメールをいただいた。読書会を続けて良かったと思うひととき。日曜日の朝と夜だった。

 

 

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寝しな