なぜ、わたし以外の誰もこの門を尋ねてこなかったのでしょうか? 『掟の門』カフカ
2021.11.8-14
月曜日
しとしと雨
いつも入っている組合の渋ノ湯の湯量が不調すぎて入れず、近くの熱の湯も湯量が不調で長期の工事に入って使えないので、雨のなか谷の湯まで歩いた。昔鉄輪に住んでいた母曰く熱の湯は今の2倍以上の湯量があって溢れんばかりだったと。どんどん上の方にホテルやら個人宅やらができて、各自で温泉を引いてきたがために少なくなっている。
それで谷の湯である。歩いて5分くらいのところに代替となる温泉がたくさんあるのだから有り難い。谷の湯は6年ぶりくらいに入ったように思う。鉄輪に越してきたときに、一通り入っておこうと思って入湯したのだった。谷の湯は鉄輪のどのメインストリートからも外れたところにあるので、入る人は少ないが、それでも愛されている湯だと思う。ここはもっとも古の鉄輪温泉を想起させる湯であると思う。鄙びたという言葉がぴったりで、不動明王の信仰に守られ、洞のようでもあり、つげ義春のマンガに出てきてもおかしくない。
火曜日
静か。
熱の湯温泉が使えないから、その前の駐車場は人が殆どいなくて、
まったき静寂に包まれている。
今日も谷の湯に入った。谷の湯、熱の湯、渋の湯。
この駐車場に用はなくても、地域猫を育てている人は餌をあげるためだけに
来ているようで、それぞれの猫の名前を呼んで集めていた。
うちのオカユはミィと呼ばれているようだった。
オカユはおなかいっぱいなのか、呼びかけられても寝たままだった。
湯布院の太宰治縁のアパアトを移築した〈ゆふいん文学の森〉碧雲荘に出かけた。
2017年のオープンと読書会以来だった。
湯布院はとても寒かった。雨も降っていた。
ピザが美味しかった。別府とは5度くらい違うのでは。
夜は別府も冷えてきて、初めて暖房をつけた。
オカユも丸くなっていた。
水曜日
今週末の読書会に参加のため佐川恭一『舞踏会』を読む。
何にせよあの男はじぶんなりに世界をつくりなおそうとしているのだと感じ、わたしはうれしくなった。そうだ、世界なんて好きに読みかえてしまえばいい。
佐川恭一『ひだまりの森』
仲間と鉄輪ウカリユハウスに集まって、新しい寺子屋をつくるための打ち合わせをする。哲学カフェや読書会で知り合った仲間なので、具象と抽象を行き交う話ができてとても楽しく有意義な時間だった。実務レベルの超現実的な話と教育理念などの抽象性の両方を大事にしたい。哲学がプラクティスとなる一歩を踏み出したい。
木曜日
外で私の名を呼ぶ声がすると思ったら、ゲンシシャの藤井さんが鉄輪に来ていらした。とりとめのない話を玄関先でする。こうして思い出してくれて声かけしてくれるのは嬉しいものだ。
久しぶりに走る。風になる。
永瀬清子が八十歳を過ぎて書いた「あけがたにくる人よ」という詩に打ち震える。
12月の朗読部でとりあげたい。
金曜日
胃やお腹の調子がいまいちなので以前からやってみようと思っていた一日一食に今日から挑戦する。まあ挑戦というか、それほどの決意もないけど。
大きく食べるのは夕食だけで、あと空腹に耐えかねたらヨーグルトやナッツ、チーズ小片、青汁を食す。
土曜日
一日一食2日目。
調子が良い。
頭のノイズが減る。
食べることののありがたさを知る。
味覚が冴える。
午前中に「哲学対話を楽しむための問いのトレーニング」にオンラインで参加。勉強になる。対話の流れを生む効果的な問いかけ、対話を深めるための問いかけを出すことの難しさを体験する。一撃必殺の問いに頼らずに、小さな問いを重ねること。また問う側と意見を言う側とに分かれて対話するというのはトレーニングとして効果的だった。
午後に双子のライオン堂さん主催の佐川恭一「舞踏会」オンライン読書会。初参加だったがとても馴染みやすい雰囲気で話しやすかった。話をしながら東京の風を空気を感じていた。
日曜日
朝、「本読みに与ふる時間」を開催する。
この時間のよさをどう表現していいのかわからない。
Bareishotenさんの店主が言っていた、
みな席に座って本を読んでいる風景を見ることの至福と通じるものがあると思う。
本を読んでいる姿は寝顔と同じく平和を静けさを感じさせる。
一日一食3日目。
薦められて朝飲む白湯が美味しい。
指でなぞるように、のどから食道から胃の縁にあたたかいものがつたっていく。
空腹の意味を変えていく。
一日一食で検索すると、健康の文脈で表れるものと貧困の文脈で表れるものがある。
意識と本質。どの世界を選ぶのか。
平出隆の『遊歩のグライフィズム』は歩くことにウカレた書物だ。A5版の量感がすばらしく、装丁のたたずまいも好きで読むとはなしにつまんで読んでいる。
XIX 先生の歩行
歩く人のことを考えると、私の頭の中は少し熱くなるようだ。人には歩行熱というものがあるらしく、歩く人のことを想像するだけで、自分もまた夢の歩行をはじめてしまうことによる発熱らしい。
母方の祖父はよく歩いた人で、私が高校生のころ、ということは七十の齢で、毎日毎日、三時間はたっぷり歩いていると聞いた。半島の片側の、海峡へなだれる山裾にとりついた坂の町である。住居の門司から勤務先の門司港にわたって、その細い帯状の起伏を、彼は歩きに歩いた。おのずから、いくつかのコースが生れ、天気や所用や気分と相談しながら、そのコースは随時択び分けられたものらしい。