対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

It must be heaven.

 

 

 

 

 

 

いま、また日本は滅びのプログラムの中に入っている。

 

どんな国家も、大帝国も、その繁栄は永劫不変ではないから、この日本の衰退と滅亡は驚くにはあたらない。私たちは、ただ今回の滅亡の際には、前回のように近隣諸国にあまり迷惑をかけることなく、静かに衰退の道をたどることだけを心がければいい。

 

私はこの滅びゆく日本に生きる、愛すべき日本人たちの退屈を、出来るだけ克明に描きたいと思う。チェーホフが、滅びゆく帝政ロシアの人々を、異常なほどの愛情を持って描ききったように。あるいは百閒先生が、みずからの退屈を、血の出るようなユーモア精神で、微細に描きだしたように。

 

 

平田オリザ新潮文庫内田百閒『第二阿房列車』解説文

 

 

 

 

 

 

2022.10.24-30

月曜日

こどもたちと走った。

 

 

火曜日

こどもたちとフラワーラッピング講座を開催する。

大阪からSさんが駆けつけてくれる。サポーターのTさんも参加。

 

 

そのながれでみんなで外に出て、いつも以上ににぎやかにボール蹴りをした。

日常と非日常を行き来する。

 

 

 

 

 

水曜日

澄んだ天気が続く。

最近はご飯が惜しく感じる。

白飯をよく食べる。

 

 

今日もこどもたちと走った。

 

 

木曜日

こどもたちと走った。

 

 

 

金曜日

ひさしぶりに昼寝をした。

夜のそれよりも深い深い眠りだった。

芯から眠り得た。

 

 

来月から今までオンラインでしていた哲学カフェを対面に戻すため、

施設に予約をしに行った。もう3年ぶりではなかろうか。

オンラインでこそ出会えた面々もあり、こちらの縁も切らないでいたいとは思う。

 

 

借りっぱなしになっていた「天国にちがいない」監督スレイマンをDVDで見る。

主人公を単なる視者にしてはいけないというのは表現の鉄則だが、

視る人でありつつ、世界−内−存在と言えるような、「関わり」が描かれている。

風景があり、音楽あり、人がいる。それだけで芸術は成り立つ。

何度も視たい作品だった。

世界に余白をつくるとはこういうことを言うのだろう。

 

 

映画を早送りしたり、かいつまんで見たりする人が増えているという。

自分にとって映画や芸術は、消費とはまったく別の体験でしかないのだが。

 

 

土曜日

こまごまとしたことをこまごまと。

やりたいこととやるべきことをする。

 

猫の冬の寝床を出す。

 

 

日曜日

77回目の別府鉄輪朝読書ノ会の開催。

77回、つまり今まで純文学と呼ばれるものを77冊みんなと読んできた。

月に1回だから、始めて7年近くになる。

メンバーは途中途中で入れ替わりながらも、そのたびに新しく初参加の方もきて。

だれも参加者がいなくなったら辞めようと思っていたけど、

有り難いことにそんなことはなく、継続できている。

これもまた私なりの余白のつくりかた。

フリースクールの活動もそうである。

 

 

 

 

 

音というしずくに内側からうつる世界のなかのものと人間。

だが、音がうつしているのは、それだけではなかった。音がめざめる前の音は何だろう。

音というこの空間はどこからでてくるのだろう。

見えない世界、音の裏側にある何もふくんでいない空間、要素をもたない空の集合。

そこから音がひらくとき、それは窓になって、世界と世界でない場所の間にひらく。


カフカ 夜の時間』高橋悠治