後になって証明されたとおり、自分達の初台ではついに血を見ずに終った。その主なる理由の一つは、ここいらは概して教養ある人々、所謂知識階級が多かった事である。正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって、所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そいてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくとも彼等は残が焼くから顔を背ける事ができた。
『羊の怒る時』江間修
九月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。
今月は関東大震災から100年に因んで『羊の怒る時 関東大震災の三日間』江間修を
みなさんと読んでいきました。
読んでいて当事者感がある、この作品の現代性(今でも変わっていない日本)、
世相、空気感、寛容は教養からくるもの、見て見ぬふり・・などなど
この作品のもたらすリアリティ、描写の切迫性が読む者に時代を超えた
単なる知識とは違う生々しいアクチュアリティを喚起していったようです。
わたしは作者がデマや虐殺をする側にまわらなかったのは、
ひとえに文学的想像と教養にあると思います。
そういう意味でも文学は実用であると言い切れます。
今回のむすびのさんの特製メニューは作者江間修氏の故郷飛騨高山にちなんだ
漬物ステーキと鶏ちゃん焼きでした。私は飛騨高山に住んでいたことがあるので、
とても懐かしくかつ美味しくいただきました。ありがとうございました。
ご参加ありがとうございました。
次回十月は岩波文庫『ゴッホの手紙』の下巻を読んでいきたいと思います。
お楽しみに。
今日三年ぶりの鉄輪は湯あみ祭りでした。
ここちカフェむすびのさんの二階から見る稚児行列と湯あみ法要でした。
私も献湯筒の供養をしました。