対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催報告】哲学カフェ大分 10.14

 

10月の哲学カフェ大分を開催しました。

今回は「癒し」をテーマに3時間の短縮バージョンで、

ソクラティク・ダイアローグの手法を参照しつつ哲学対話しました。

 

時間の節約もあり、事前に参加者のみなさんから今回のテーマに関する

問いとエピソード(具体的な体験)を集めました。

 

 

問い

エピソード

 

 

集められた〈問い〉

・癒しは外部から与えられるものではなく、自らのことを労り慈しむことで、本来の自分に調整することではないのか?

・癒しは「リラックス」や「安心感」と何が違うのだろうか?

・人はなぜ癒しを求めるのだろうか?

・癒しはそもそも必要なのだろうか?

人が人から「癒し」を感じる時、私たちの心には何が起きているのか?

癒しにはいろんなレベルがあるのだろうか?それとも本質はすべて同じなのだろうか?

・「癒し」と「喜び」と「満たされる」。この3つの違いは何?

・「癒し」と「ときめき」と「ワクワク」の違いは?

何を感じた時に、人は癒されたと思うのか?共感?神秘性?身体のリラックス?分からないものが分かった時?音楽?動物?そこに何か共通点はあるのか?

癒しにも『偏見』はないだろうか?

 

 

 

集められた〈エピソード〉

・癒しを考えたときに「癒しグッズ・癒し系キャラ・癒し系アイドル・癒しのお宿…」など「癒し〇〇」という言葉がたくさん浮かびました。私たちの周りには「癒し〇〇」があふれています。しかし本当にこれらの商業グッズで、癒されている人はいるのでしょうか?もしかして私たちは「癒し疲れ」になっていないだろうか?そんな疑問がわきました。そこで「癒す」を辞典で調べると『病気や傷を治す・悲しみ苦しみをやわらげる』とありました。ここから「癒し」とは「ありのままの自分を認めて労ること」だと感じました。

 

・私は普段「癒されたい」と思って何か自分から積極的な行動をとることはないのですが、ふとした瞬間に「癒し」を感じることはあります。虫の声、動物、自然の中で何かに触れたときそのように感じやすいです。あるいは、時間の経過によって癒される心というのもありました。一方、対人関係において「癒された」と感じた経験はあまり記憶にありません。(元気付けられた、励まされた、ヘッドスパ気持ちよかった、ということはたくさんありますが)そこで、人が人によって「癒された」と感じるとき、そこでは何が起きているのかが気になりました。

 

 

・神社とかお寺の仏像とかを見て深く癒やされる、たとえば魂レベルとか、一方できれいなお姉さんやふとしたショート動画で癒やされることもある。これらに質的な差はあるんだろうかな。

 

 

私が癒しを求める時、いつも「逃避したい」という感情が思い浮かぶ。

 

 

人、本、音楽アート映画、ペット、映像、旅、自然食べ物

今は、違った国の文化と異なる性格と男女差年齢差を理解しようとすることで癒されています

 

 

大自然に触れたとき。家でゆっくりすごすとき。温泉。ふわふわ、ほんわか。

 

犬のしつけに失敗して、部屋がおしっこだらけになった経験から、動物を見ても何も感じなくなった。動物は癒しの対象とよく言われるが、現実を知る事で、違った見方になった。

 

 

 

・癒やされる、癒やされた、と人が言った時に出てくるのは、「美しい、楽しい、嬉しい、感動、静か、」などなどで表される所や事や人が多いのではないか。

「自然、遊園地、動物、文芸作品、美術館、田舎」などなど⋯。

 

しかしその真逆を表す所や事や人にも、癒しを感じる人もいる(時もある)。

「廃墟、クラブハウス、一部の昆虫(いつか共に行った白池地獄の「キモい昆虫展など」)、悲劇的な作品、大都市」などなど⋯。

 

「癒し」と言う私的で抽象的な概念の行為にまで、なぜここでも人は「偏見」を生み出すのだろうか。憤りを感じる。

 

 

 

 

 

 

エピソードをベースにして、共通性や関連性を分類整理しようとしたものの、

癒しという感覚に負うところが大きいためか、割とその作業に際限のなさを感じ、

むしろ自由に語り考えてもらって、そこから本質を新たなにつかまえた方がいいな

(楽しいな)とそのとき展開を考えながら思っていましたら、時間軸の話が出てきて、

とつぜん過去、ノスタルジアと癒しについての問いになり、わたしのなかで

〈現在が更新(書き換え)されることの癒し〉というのがふってきた?のでした!

 

 

一人で考えるという営みでは辿り着けなかったのでSDの醍醐味をここで感じました。

 

 

休憩をはさみつつ、対話をつづけ深く、広く進んでいったように思えます。

 

 

 


これまで出た本質を過不足なく記述していきました。

1     癒しとは、マイナスからの安心できる穏やかな逃避を自覚できた状態である。

2    癒しとは、安心感である。

3 癒しとは、緊張や疲れからの変化の過程である。

4 癒しとは、ノスタルジア(過去の想起)によって「現在」が書き換わる際に生じる

   内的な快の情動である。

5 癒しとは、理想化した非日常のなかだけに存在するものである。

6 癒しとは、瞬間的、表面的な救いである。

 

このなかから、さらに2つくらいに本質をまとめられるといいなと思いましたが

時間が足りませんでした。

こうして1〜6を並べると、ここからまた対話ができそうです。

それにしても、1の入り組んでいる感じがなんともいい。

(個人的には4にすべて収斂できるように思えた・直観として・・)

 

 

そしてこれらの記述が当初の問いに応えているか検証しました。

ほぼ応答ができていたように思えます。

 

 

今回も哲学対話することの意義を明確に感じ取れた時間でした。

 

前回参加された方が、

 

 

・他者と分かり合うことは可能かもしれないという実感を得た。

 

・高い対話力を持つ人が増えることが世界を変えるというより、

よい対話を経験したことのある人が増えることが世界を変えるのでは。

 

 

 

という感想を送ってくれたのを思い出しつつ、

ここには確かな希望の原理があるのではと考えていました。

 

 

ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

 

今回は海外から帰国されてて参加された方もいて、多様な意見に恵まれました。

ここで出された結論は訂正可能性、反証可能性を含みつつオープンエンドなものです。

 

 

それでは、また対話の場でお会いしましょう。