対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

価格設定はアートである

 

 

2022.5.2-8

 

月曜日

日曜日の夜にあるガキ使を10年以上ぶりくらいにテレビで見ているけど、全く面白くなっていることに驚く。YouTubeなどで過去のものを見ると面白いのだが、現在制作されているものの面白くなさは何だろうか、これは充分論考に値するものではなかろうか。ただあの5人がいるだけで面白かったような場の力というのが消滅してしまっていて、それを企画(ボードゲームとか)で無理矢理面白くさせようとしているのに白けてしまう。なんだろうこの地殻変動は。放送倫理の縛りかもしれないし、笑いの運動神経の喪失とか、時代の変化とか複数の要因があるのだろうけど、笑いの力の持つ社会への余白を拡大していくような勢いがなくなり、すでに今ある余白のなかに入っていこうとするだけの遅れが無残にも展開されているのを見せられているだけ。1989年から始まったこの番組。老いの問題として、あるいは終わりなき青春の強制反復としても捉えてみたい。

 

 

火曜日

憲法記念日

子どもの頃は「ケンポウ」と言えば「拳法」のことで、

それを記念する一日とはどういうものなのか、

さして問わずにいた。

 

 

水曜日

GWらしさ。

人には働くときとはっちゃけるときが必要だとつくづく思う。

 

 

木曜日

国東へ。1年前は国東でアートカフェをしたのが早い。

 

 

今年も国東の風を感じたく、三浦梅園先生の旧宅や中世の荘園風景がそのまま残る

田染荘などを巡った。

 

書かれたものと空間(土地)はどのような聯関があるのか。

その人生で3度しかこの土地を出なかった男の思想。

どこでもよかったということはないと思う。

 

 




 

金曜日

生徒が30分だけオカユに会いに来る。

動物がもつ無条件な愛、種が違うからこそ成り立つ心の対話、

教えるのではなく引き出されるもの。

 

 

土曜日

月に一度の対話勉強会。

テーマは「みなさんはどのような目的で哲学対話の場を運営していますか?」

 

問いを通して人が繋がっていく、対話的な社会の実現(の不可能性)、

哲学対話は練習の場で平場が本番、根拠と論拠の違い。

 

 

 

 

日曜日

筋トレをこつこつと。

 

松本人志が筋肉を鍛え始めたのは、頭打ちする生の勢いに対して

抗するためだろうか。

 

老いに対して、さまざまなかたちで描かれる文学はたくさんあるが、

その多くが老いに比して「若いね」「元気だね」と言われるようなものが多いけれど、

老いることによって、できること・できたことが〈縮減〉される恐怖のようなものを

描いているのはあまり知らない。

 

人に時間は流れているのかと思うことがある。

その精神において、こどものころ、中学のころ、20代いろんな自分が併走している。

ただ肉体が(同時に精神も)その力がかつての勢いを失っていく…

これは同時に日本の経済状況のことでもあるし、

「下りてゆく」ということをどう肯定して受け入れるのか、

老いた者たちは考えなければならない。火は目の前なのだから。

 

 

 

まぎれもなく偉大な、独創的な、特異な思想家であったし、そのような思想家であってはじめて生きえた逆説にちがいなかった。しかし、その逆説との格闘は、梅園の自負するところが大きかっただけに、のみならず、同時代はおろか後世にも、ひとりの後継者、いや理解者すらあらわれなかっただけに、のみならず、今日もなお、いわば神話のヴェールにつつまれているだけに、かえって痛ましい。わたしは繰り返し、こう問いかえさずにはおれない、梅園の生涯をかけた思想的格闘は、いったいなんであったか、と。とはいえ、そのような格闘がさまざまにかたちを変えて、いたるところで繰り拡げられることなしに、日本の近代がありえなかったであろうことは、たしかである。それはすでに影響の問題を超えている。

 

『黒い言葉の空間』黒田慶兒