対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

伯林の瞬間

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2002.10 Seoul 街の猥雑さは誰がつくるのだろう

 

 

 

音のうまれるときは、人間の内部にもからっぽな空間がある。心にじゃまされずに音に気づき、音のはこびをほとんど意思の力で消えるまでたどる。音をつくる身振りは訓練をかさねて、意識からはなれていく。フィードバックの環はまわりだすと、はじまりの点はもうない。

 

カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

2021.09.13-19

 

 

月曜日

今日は久しぶりのフリーの一日。

ぼーとしたかった。

 

 

そしてプルーストを少しずつ読む。

 

 

 

自分の活動を特集したラジオ放送がなされる。タイトルは「注文の多い文学カフェ」。ああ言えば良かったとか、あれを言えば良かったとかいろいろ反省はあるし、それが学びとなったいい機会だった。言い漏れたこととして、戦後のはるかはるか後に生まれた自分が、なぜ戦争文学にそんなに拘るのかという問いとそれに対する応答なのだが、自分は20代のはじめに沖縄を一人旅していて、地元のタクシーのおじちゃんからワンマンで戦跡をずっと案内してもらって、最後に集団身投げをした喜屋武岬に辿り着いて、誰もいない断崖絶壁を前に立って風に吹かれたときに、「戦争」というものが、自分の中に入ってきた、理解できたような気がしたのだった。それはひめゆりの塔や慰霊場などの観光地化?された表顔の戦跡では得られない言い様もなく迫り来るものがあった。その旅から帰って以来戦争文学を渉猟するようになった、嵌まった。そんな大事なことを言い忘れたと後悔していたら、ディレクターチョイスの沖縄音楽が流れ出して吃驚したのだった。

 

 

火曜日

ひんやりとした雨の一日。

だんだん肌寒くなって長袖を着始める。

夜になるつれて気温が上がって半袖に着替える。

 

 

ユリイカ中島敦特集が届く。1977年の9月号で、吉田健一の追悼特集も挿まれている。60年代とか70年代くらいの誰も光を当てないような古本が好きだ。古本屋もカフェと併設したお洒落なものよりも、古い紙の匂いのする狭苦しいものが好きだ。自分だけを光を待っている。蓮實重彦夏目漱石論が掲載されてあって、その文体は変わらず私が生まれる前から蓮實は蓮實であったのかと嬉しくなった。そう言えば蓮實の『草枕』の映画化はどうなったのだろう。

 

 

 

漱石的「存在」が滝を視線におさめることの危険は、とうていただれた胃袋に酒を流しこむことの比ではない。「滝」とは行ってはならぬ場所の名前なのである。

 

夏目漱石論 Ⅴ 水の変容』蓮實重彦

 

 

 

 

水曜日

 

読み終えることができないかもしれないという予感をはらんだ読書ほど甘美なものはない。

 

 

 

教会を去ろうとして、祭壇のまえにひざまずいた私は、立ちあがる拍子に、ふとアーモンドのようなむっとするあまい匂がさんざしからもれてくるのを感じた、そしてそのとき、この花の表面にひときわ目立つブロンドの小さな点々があることに気づき、あたかも、アーモンド・ケーキのこがし焼の下に、フランジパン・クリームの味がかくされ、ヴァントゥイユ嬢のそばかすの下に、彼女の頬の味がかくされているように、このブロンドの小さな点々の下に、この花の匂がかくされているにちがいないと私は想像した。さんざしの不動の沈黙にもかかわらず、この間歇的な匂は、さんざしの強烈な生命のささやきのようで、祭壇はそんな生命に満たされて、元気な触覚をもった虫たちの訪れを受ける田園の生垣のように震動していたが、ほとんど赤茶色に近い雄蕊のいくつかの点々を見ていると、誰にもそんな元気な触覚が思いうかぶのであって、それらの雄蕊は、きょうは花に変身しているが、元は昆虫で、その昆虫の春の毒液、はげしく刺す力を、まだ残しているのではないかと思われるのであった。

 

失われた時を求めて Ⅰ 』 第一篇 スワン家のほうへ

マルセル・プルースト 井上究一郎 訳(ちくま文庫

 

 

 

 

木曜日

息をしていた。たぶん

いまは生きている。たぶん

 

 

 

 

 

 

 

 

金曜日

 

 

台風が通過する。ひだりから右へ。

オカユが怯え気味で、傍を離れない。

気圧の影響か気分が優れない。ふわふわする。

 

 

九大のPCって全部Macなのか。

20年以上前のMacは宗教性さえ帯びていて、それがPOPでさえあったから、

ほんとうにMacは信者をもっていた。私もその一人だった。

今は大衆化してしまったけど、Mac以外のPCを買う気にはなれない。

クラリスワークスとかのソフトを開いたときのドキドキ感はもう味わえないだろう。

 

 

月のきれいな夜。

うちの書斎の窓は向きが良くて、

机に座って本を読みながら月が正面に見えるのを自慢したい。

 

 

 

土曜日

さんざん暴れまわってふと温帯低気圧に変わる炭酸の抜けたさいだあのよう

 

 

夜はオンラインで哲学カフェを開催する。

テーマは「最近、冒険してますか?」。

予想に反し、女性ばかりの参加者での回となった。

女性だけの回は読書会でもそうだが、一種の和やかさがある。

男性がそうではないということではないけど。

ジェンダーって何だろうか。これもまたテーマにしたい。

これを読んでくれているみなさんは最近冒険してるだろうか。

 

 

それにしてもOSをBig Surに変換してから、動作が重くなったり、

Zoomもいろいろ設定が変更されて不調で、あやうく開催が出来ない事態に

陥るところだった。

 

 

日曜日

清々しい朝。

太陽光線が徐々に透明になっていくこの季節の無上さ。

 

 

 

朝はオンラインで「本読みに与ふる時間」を開催する。

集中して本が読める時間。もっとみんな参加して活用してくれたらいいのにと思う。

コロナが明けたら、東京のfuzukueに行ってみたいな。憧れる。

読書は苦痛でありつつ幸福な時間なのだ。

 

 

 

飛騨地方で地震があったようだ。

住んでいた町の風景がライブカメラで映し出される。

胸がぎゅっとする。

あの町は不思議と風の吹かない町だった。比喩ではなく。

大きな山脈に囲まれているからだろう。

この町で「文化」と呼べる場所は、町の端っこにあって車でしか行けない

国道41号線沿いのヴィレッジ・ヴァンガードだけだった。

大雪の日にたまたま見つけて、中に入って、真新しい本とPOPを見たときは

本当に感動したものだった。そういった空気に触れたのも1年ぶりくらいだった。

たぶんそのとき、私は泣いていたと思う。

 

 

 

 

私がはじめてベルリンという地名に木霊するものを自分の中に感じたのは、ベンヤミンの本に出会ったときだった。一九六〇年代の終りから、その著作集が日本でも翻訳されはじめていた。とくにそのうちの文学的なものといえる『ベルリンの幼年時代』を読んだとき、私はたちまちその見知らぬ都会に抱きすくめられたような気がした。

 

『鳥を探しに』平出隆

 

 

【開催報告】第八回 本読みに与ふる時間 9.19

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九月の「本読みに与ふる時間」を開催しました。

 

 

日曜日の朝にオンラインで集まって各自好きな本を20分間読む、

ただその時間を共有するだけというシュールな?会ですが、

静かに集中して本を読むにはとてもいい会だと思っています。

(最近集中力がなくなってきたので…)

爽やかな朝に、休日のよきスタートダッシュがかけられますよ。

 

 

 

今回読まれた本は、

 

・『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太(星海社新書)

 

・『夢をかなえるゾウ 4 ガネーシャと死神』水野敬也文響社

 

・『ひきこもっていても元気に生きる』高井逸史・藤本文朗・森下博・石井守編(新日本出版社

 

 

 

 

 

書けない悩みをソフトウェアによってなんとか解決したいと思うのはプロの方も同じなんだなあ。使い倒したい本だ。

 

 

コロナ禍も鑑みつつ、ひきこもりライフを積極的に楽しみ、その意義を見出したいところ。

 

 

 

 

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オンライン画面のようす。黙々と本を読みます。

 

 

ご参加ありがとうございました。

 

 

【開催報告】オン哲!9.18(オンライン哲学カフェ)

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9月のオンライン哲学カフェを開催しました。

今回のテーマは「最近、冒険していますか?」でした。

 

対話に入る前に、みなさんの最近の「冒険」のエピソードや今回のテーマに関して考えていることなどお聞きしました。

 

・読書好きだがアマゾンだと自分の嗜好が先回りされているのでブックオフに行って未知との本の出会いを楽しんでいる。今回はグーグル的世界観の中での、未知との遭遇や冒険を考えてみたい。

・スーパーで見知らぬ植物を買ったのが最近の冒険かな。テーマに関しては、冒険してたとえ失敗してもそれが受け入れられるかどうか。冒険はワクワクや生きるよろこびに根ざしていると思う。

・最近は冒険していない。以前は突然来た屋久島ツアーへの誘いに参加して、テント泊や宮之浦岳に登山したりもした。またSNSでこその出会いもあり、インターネットならではの、「新しい冒険」のカタチがあるのではないか。

・私にとっての冒険とは、ふつうの日常生活のなかでのささやかなもの。偶然性による自分が普段選ばないような本との出会いを楽しんだりする。

・珍しい味のソフトクリームなどを頼んでみるのが冒険。

 

冒険にもいくつか種類があって、日常のなかのささやかな非日常を楽しむといったリスクの少ない「小さな冒険」から、身体的あるいは金銭的なリスクのあるような「大きな冒険」。また自分で選んだ主体性のあるものから、偶然性に導かれたものに主体をさらしてみる試みもある。

 

「挑戦」と「冒険」ってどう違うのか、同じなのかという問いがなされ、挑戦には失敗はあるけど冒険には失敗がないのではないのか。挑戦は目的がクリアだが、冒険はプロセスこそが冒険と呼ばれるものではないのか。(ピノキオや三蔵法師は冒険であって、挑戦ではないの例)

 

ある女子学生は授業がすべてオンラインになり、バイトが中止になったりして出会いがなくなったので、出会い系サイトで出会いを求めている。そういう新しい「冒険」もある。

 

今回は意外?にも女性の参加者がほとんどの回だったのですが、(そもそも男性の参加者が少ないですが)それは男性の保守性に起因しているのではないのかという話から、身近なものを愛する女性とより遠くより高くを目指す男性といった対比の話が出だ。

 

昨今の口コミサイトの充実は、「金銭の損をしたくない」とか「時間の無駄をしたくない」といったコスパ重視の思考に弾みをつけているが、恋愛さえもコスパで計られており、冒険への忌避があるのではないか。また変化を嫌う風潮も。

 

新たな問い。大手企業に勤めていた人がベンチャー企業に転職するのは挑戦か、冒険か。転職の動機によるのではないか。経済的な成功を目指すことだけなら挑戦で、失敗するかもしれないけど自分のやりたいことをやるというのなら冒険になるのではないか。その連想で、少年ジャンプのテーマ「友情・努力・勝利」は「友情」の部分があってこそ冒険になり得る。

 

 

…といったところで、対話の時間は終わりになりました。特に結論めいたものはだしませんが、最初に考えていた「冒険」像からは僕自身遠くまで来たかなというのが実感です。確かにどなたかが仰っていたように、この哲学カフェ、哲学対話じたいがひとつの冒険ですね。

 

 

ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

【開催案内】本読みに与ふる時間 9.19

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◆「本読みに与ふる時間 9.19 」
「本読みに与ふる時間」とは各自が日曜日の朝に好きな本を20分間読む、その時間をオンラインで共有するというだけの企画です。

【企画の概要】
・各自が読まれる本は問いません。文芸書でもビジネス書でもお子さんと一緒に絵本を読んでもOKです。基本黙読でお願いします。
・9時開場で、読書時間はだいたい9時15分~35分の20分とします。
・参加費はかかりません。
・zoomを使用します。あらかじめアプリをダウンロードしておいてください。
ご自身がその日に読む本をzoomのチャット欄に書き込んでください。できれば選んだ理由も書き添えてくれると嬉しいです。
・参加者の方が自己紹介など特に話す必要はありません。僕が一方的にしゃべります。話すのが苦手な方歓迎です。
・マスクをしていても構いませんが、ビデオはオンにして顔出しでお願いします。
・基本ミュートにしてください。
・参加には事前の申し込みが必要ですが、ドタキャンはOKです。途中参加途中退出もOKです。
・参加希望者はこのメールに返信ください。開催日の前日に招待メールをお送りします。
・僕の都合で突然中止になるかもしれませんが、その際は事前に連絡いたします。
 


○企 画:第八回 本読みに与ふる時間
○日 時:9月19日(日)9:00-9:40

ファシリテーター:シミズ
○参加費:なし
○定 員:何名でも可(要事前申し込み。ドタキャンOK)
○備 考:参加申込者には前日に招待メールをお送りします。それにリンクしてあるzoomのURLをクリックして当日入室してください。
○前回の開催報告です→
https://kannawadokusho.hatenablog.jp/entry/2021/07/18/105706
 

【開催案内】オン哲!9.18(オンライン哲学カフェ)

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今回のテーマは「最近冒険してますか?」です。ネットの口コミサイトが充実してきて、たとえば外食をする場合など事前に調査をし(自分が直接経験せずに)判断を下し、行く店を決めるなどが当たり前になってきていますが、そういう冒険性が失われた世界で、未知との遭遇や冒険がいかに可能なのか考えてみたいと思います。みなさんの最近の「冒険」がありましたら、ぜひ聞かせてください。

 


○テーマ:「最近冒険してますか?」
○日 時:9月18日(土)20:00-21:45
○場 所:各自パソコン(カメラ・マイク付属もしくは内蔵)の前へ(原則デスクトップかノートブックパソコンにて参加してください。)  ※ ipadスマホでの参加は構いませんが、全員の顔が同時に見れないので不自由さがあるかと思います。
○方 法:Zoomを使用します。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayもしくはamazonギフト券でお支払いください
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:開催前日までにお申込みください。

 お申し込みはホームページからお願いします。

dialogue-oita.jimdofree.com

パピルスからPDFまで

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2002.10 Seoul 日本ではもう舗装されていない路を見つけるのは難しい

 

 

 

 

この本のタイトルをどうしようかとあれこれ考えつくしたあとに、私たちは正しいタイトルにいたりついたのだろうか。

 

『建築する身体』荒川修作+マドリン・ギンズ

 

 

 

 

2021.9.6-12

 

月曜日

昨日9時頃寝たせいか、今日は5時前には起きた。

今朝は涼しい。季節の潮目が変わったようだ。

 

 

ラジオプロデューサーのイイクラさんが、眠る前に新潮から出ている中島敦『李陵』の朗読CDを聴いているというので、自分も買って聴いている。とてもいい。漢文調の凜々しく簡潔なリズムがあの広い中国の平原に馬を走らせる群像と相まって遠くまで想像をはたらかさせる。日下武史の声がすばらしい。ただ僕には入眠前に聴くには目が冴えてしまうが。

 

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ジャケットからしてかっこよし。

 

 

火曜日

 

バナナは斑点が出るくらいが一番栄養価が高いと聞くが、タイミングをわずかに逃してしまうとどろどろになる。

 

 

Webcat Plusというサイトでは、なんとなくのストーリーは分かるけど、タイトルや著者名が分からないといった場合の「連想検索」ができるのだが、今日「ある老人が飲み屋に通って来るが、店の者も他の客もその老人が誰で何処から来るのか知らない」で検索したら、175万件もヒットしてしまった。「居酒屋恋しぐれ」とか、「ふしだら下宿」とか、「新しい客がどんどん来る店」とか、「栓が抜ければ飲み屋はできる」とか。

 

 

水曜日

なにかとても大切なことを書こうとしていたが、忘れた。。

 

 

ラジオのディレクターから編集が完了したとの報。3時間を1時間に圧縮したので、どう編集したのか放送が楽しみだ。

 

 

木曜日

朝の風のすずやかさが目立つようになる。日差しは強くても。空気の透明度も増す。

 

 

毎朝温泉に入る。そういう生活がしたいと思っていた。今はできている。地元の人と頭を洗いながら、何気なく話す。そのなかのひとりの爺ちゃんが、いつも冷たい缶コーヒーを持ち込んでいて、湯船に浸かって出た後、いい音をさせてプルを開け、少しづつ飲んでいるのが、美味しそうだなといつも思う。

 

 

 

蘿蔔(すずしろ・大根の別名)について調べていたら清白と出てきて、そうか伊良子清白はここからとったのかと思い当たった。「伊良子清白」と何度も万年筆で書いてみる。惚れ惚れするような名前だ。

 

 

動画に出ていたかつてのドラッグ中毒者によれば、ドラッグよりも病院で処方される薬の方がやばいと言う。完全に無気力なロボットのような人間にさせられてしまうという。たぶん患者が自殺しないように、無力化させられて、恢復までの時間稼ぎをするのだろう。生きることと死ぬことがよく分からなくなってくる。

 

 

 

金曜日

柳沢慎吾のモノマネをTikTokで見る。彼のモノマネは、私達の知らない「地元の友人」とか「高校時代の同級生」を演じて、そこに圧倒的なリアリティショーを出現させる。通常のモノマネは(誰もが知る)オリジナルのモデルがあって、そこからの似姿と微妙な差異を楽しむわけだが、彼のモノマネの原型は彼しか知らないのだが、なぜか知っているような、幽霊のようにそこにいるような原型を同時に想像させもし、笑いの渦に誘い込んでしまう。「こういう人がいるかもしれない」という想像は、まだ見ぬ人へ思いをいつの間にか馳せさせている。

 

 

 

 

 

たとえば、自分に関係のある部分(neighbor)は私の延長であり、その延長は私のようなかたちをしていないけれども、同じ人生を歩む—このことが理解できれば、私といわれている肉体がこのまま消えていったとしても、それほど恐怖に思わないでしょう。最終的に、肉体というものは、自分の周りに、違うかたちによって物質的に表現される。そのときはじめて、ああこれがからっぽの自分か、ということがわかるんだろうと思います。

 

荒川修作

 

 

 

 

 

 

土曜日

9.11の日。

この日を境に世の中が急激に右傾化していったと思う。

内向きになり、弾力性が、冗長性が失われた。今に続いている。

 

 

 

各大学のリポジトリをのぞくと、局所的な研究(研究とはそういうもの)の論考がたくさんあって楽しい。パピルスからPDFまでとか。島尾敏雄が作家であり司書であり図書館館長だったことを研究した工藤先生の論文があって、じっくりと読んだ。

 

 

 

日曜日

今日は月に一度の対話勉強会の日。対話に場において「傷つく」ということを中心に考える。対話というのは「傷つく」ことが込みであると僕は思うが、それにも様々な種類や質の違いがあり、対話の良い面だけでなく、いわば副作用としてのそれらもきちんと最初にアナウンスすべきではなどの意見が出た。

 

 

 

明日放送されるラジオの音源を先行して聴いてみた。通常音というのは遠近があって、そこの空間があることでコミュニケーションが、あるいは人と人の間が成り立つ。ただマイクによる集音は、単一のものだと、遠近が消え、一元的になりがちで、読書会の収録などは僕のうなづきが前面に出てしまって、発言者の声とかぶってしまっていた。こういうのは技術的になんとかなるのだろうが、もう遅かった。

 

 

 

 

 

あなたと一緒に入り口に吸い込まれなかったものにはすべて別れを告げ、また中に入る前に廊下であなたを取り巻いていたものや、街を歩きまわっていた時に、あなたのまわりに渦巻いていたものの大半にも、さよならを言いましょう。
 
三鷹天命反転住宅 使用法1≫ 荒川修作+マドリン・ギンズ
 
 

 

空蝉 うつせみ

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2002.10 Seoul 裏路地は終始猥雑ではあったが、妙に人を落ち着かせるものがあった



 

 

 

体は、それ自体が解体されることなしには、そしてその結果対象が際限のない一連の移動へと逃れていくのを見ることなしには、欲望することはできません。

 

『自我』ラカン

 

 



 

 

2021.8.30-9.5

 

月曜日

空蝉(うつせみ)とは、蝉の抜け殻であることらしいが、今までずっと夜になっても耳に蝉の鳴き声が残って、鳴いてもいないのに鳴いているように聞こえることだと思っていた。その方がいいんじゃないのか。

 

 

空蝉ついでに源氏物語の「空蝉」をぱらぱらと読んでいたら泣きそうになった。プルーストと併せてじっくり読みたい。

 

 

昔の動画で、松本人志が飲酒運転の謝罪会見は素面ではなく、酔ったときに不祥事を起こしたのだから酔った状態で行い、その状態で謝罪なり反省しないと意味がないみたいなことを言っていて、なんかベケットのようで面白いと思った。そういえば、イギリスガーディアン紙の読むべき小説100のなかにベケットの『モロイ』が入っていて、それもコメディのジャンルに入っていた。

 

 

 

火曜日

八月の終わり。特にこれといった感慨はない。忙しい。

 

 

夏をテーマにした音楽をずっと聴いている。

すぐれて夏を表象し得た音楽は、

すでに夏の終わりをその音楽の中に内包している。

真上に放ったボールが頂点に達して落下する際、

その頂点において既に落下の因子を含むアナロジー

 

 

 

水曜日

九月の始まり。昨日は寝苦しかった。

 

 

 

夜、OBSのスタジオに行ってラジオの収録をする。

本番前にディレクターといろいろ雑談をして、収録に入る。

本番前の雑談の方が、面白かったような気もする。

本番はどうしても構えてしまうものがあるなあ。慣れの問題かなあ。

好きで聴いている様々なラジオ番組を思い出しながら。

自分はラジオ向きだとつくづく思いながら。

詳しくは別の記事に書きました。

 

 

 

木曜日

曇ったり、雨が降ったりの日々。

 

 

大分に向かう途中、10号線が少し混んでいて、

遠くに白霧にくすむ別府タワーが見えて、

このときはじめて「別府」というものを理解できた気がした。

理屈ではない、概念とした別府が具象でも抽象でもなくつかめた感じ。

それも不意に。

 

 

 

金曜日

激しい雨が降る。いつ雨が降って、いつ降り止んでがわからない。

 

 

病院の待合室のテレビでパラリンピックの中継を見る。

視覚障がい者の行うコートボールをやっていて、はじめてじっくりと見た。

完全に視界を塞がれた黒くて大きなアイマスクをして競技している。

審判は、そのアイマスクが正しく装着されているか入念にチェックする。

おそらくボールは動くと音が鳴るのだと思う。

攻める側はそのボールを相手のゴール(横幅が広い)に向かって投げ、

守る側はゴール前に寝そべってそれを防ぐ。3人対3人だ。

何故か分からないがとても偉大なものを見ている気がして、感動してしまった。

そしていつの間に日本が勝って、みなアイマスクをとり、輪になって喜んでいた。

人が所与の条件のなかで生きる。

その条件の端から端を生きる。

それが視覚障がい者によって視覚化されること。

 

 

 

 

土曜日

晴れた。強い日差し。

南国で聴くような切れのある鳥の啼き声がどこからかする。

 

 

 

知人から相談のようなメールをいただくも、難しい用語を一切使っていないのに、文章の意味がとりづらく難解であった。疲れているのかもしれないと思いつつ、返信する。

 

 

哲学書を読むと、いろんな「難解」さがあることに気づく。ハイデガーの難しさとデリダの難しさは、全く違う質感の難しさだ。ラカンレヴィナスにもまた違う固有の難しさがある。それぞれの「難解さ」を味わう、その必然を感じ取れなければその難しさは悪意にしかならない。その難しさは隔壁された拒絶ではなく、彼らに近づくための唯一の細い通路で、そこはカフカの門のように、閉まってはいるが私のためだけの門なのだ。

 

 

 

 

日曜日

マウスの調子が悪いのを無理して使っていても始終いらいらするだけなので新しくロジクールのものに買い換えたが形状はほとんど同じなのに手の馴染みというのが全然なくて始終違和感を感じながら、触れることの触感の微細な感覚機能に裏切られてもいる。

 

 

 

ユダヤ神秘主義のある固有の表現についてお話しましょう。古代の権威者によって制定されたたいへんに古い祈りの言葉の中で、信者は神に向かって「あなた」(tu)と語りかけるところから始めますが、その祈りを「彼」(il)で終えるのです。まるで「あなた」に接近しているうちに、「彼」として神の超越性が出来したかのように。私が「無限」の「彼性」と呼ぶのはそのことです。

 

『倫理と無限』レヴィナス

 

 

 

 

 

昔はよく数えたものだ、三百か、四百まで、いろんなもので、雨とか、鐘とか、明けがたの雀の声とか、さもなければ、なんにもたよらずに、なんの理由もなく、ただ数えるために数えた、それからその数を六十で割った。そうやって時間を過ごした、わたしが時間だった、わたしは世界を食いつくした。いまは違う、昔とは違う。人は変わる。年を取りながら。

 
マロウンは死ぬ』ベケット
 
 

 

 

 

話が進むにつれて、屠殺場がだんだん大きくなっていった。

マロウンは死ぬ』ベケット