対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

空蝉 うつせみ

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2002.10 Seoul 裏路地は終始猥雑ではあったが、妙に人を落ち着かせるものがあった



 

 

 

体は、それ自体が解体されることなしには、そしてその結果対象が際限のない一連の移動へと逃れていくのを見ることなしには、欲望することはできません。

 

『自我』ラカン

 

 



 

 

2021.8.30-9.5

 

月曜日

空蝉(うつせみ)とは、蝉の抜け殻であることらしいが、今までずっと夜になっても耳に蝉の鳴き声が残って、鳴いてもいないのに鳴いているように聞こえることだと思っていた。その方がいいんじゃないのか。

 

 

空蝉ついでに源氏物語の「空蝉」をぱらぱらと読んでいたら泣きそうになった。プルーストと併せてじっくり読みたい。

 

 

昔の動画で、松本人志が飲酒運転の謝罪会見は素面ではなく、酔ったときに不祥事を起こしたのだから酔った状態で行い、その状態で謝罪なり反省しないと意味がないみたいなことを言っていて、なんかベケットのようで面白いと思った。そういえば、イギリスガーディアン紙の読むべき小説100のなかにベケットの『モロイ』が入っていて、それもコメディのジャンルに入っていた。

 

 

 

火曜日

八月の終わり。特にこれといった感慨はない。忙しい。

 

 

夏をテーマにした音楽をずっと聴いている。

すぐれて夏を表象し得た音楽は、

すでに夏の終わりをその音楽の中に内包している。

真上に放ったボールが頂点に達して落下する際、

その頂点において既に落下の因子を含むアナロジー

 

 

 

水曜日

九月の始まり。昨日は寝苦しかった。

 

 

 

夜、OBSのスタジオに行ってラジオの収録をする。

本番前にディレクターといろいろ雑談をして、収録に入る。

本番前の雑談の方が、面白かったような気もする。

本番はどうしても構えてしまうものがあるなあ。慣れの問題かなあ。

好きで聴いている様々なラジオ番組を思い出しながら。

自分はラジオ向きだとつくづく思いながら。

詳しくは別の記事に書きました。

 

 

 

木曜日

曇ったり、雨が降ったりの日々。

 

 

大分に向かう途中、10号線が少し混んでいて、

遠くに白霧にくすむ別府タワーが見えて、

このときはじめて「別府」というものを理解できた気がした。

理屈ではない、概念とした別府が具象でも抽象でもなくつかめた感じ。

それも不意に。

 

 

 

金曜日

激しい雨が降る。いつ雨が降って、いつ降り止んでがわからない。

 

 

病院の待合室のテレビでパラリンピックの中継を見る。

視覚障がい者の行うコートボールをやっていて、はじめてじっくりと見た。

完全に視界を塞がれた黒くて大きなアイマスクをして競技している。

審判は、そのアイマスクが正しく装着されているか入念にチェックする。

おそらくボールは動くと音が鳴るのだと思う。

攻める側はそのボールを相手のゴール(横幅が広い)に向かって投げ、

守る側はゴール前に寝そべってそれを防ぐ。3人対3人だ。

何故か分からないがとても偉大なものを見ている気がして、感動してしまった。

そしていつの間に日本が勝って、みなアイマスクをとり、輪になって喜んでいた。

人が所与の条件のなかで生きる。

その条件の端から端を生きる。

それが視覚障がい者によって視覚化されること。

 

 

 

 

土曜日

晴れた。強い日差し。

南国で聴くような切れのある鳥の啼き声がどこからかする。

 

 

 

知人から相談のようなメールをいただくも、難しい用語を一切使っていないのに、文章の意味がとりづらく難解であった。疲れているのかもしれないと思いつつ、返信する。

 

 

哲学書を読むと、いろんな「難解」さがあることに気づく。ハイデガーの難しさとデリダの難しさは、全く違う質感の難しさだ。ラカンレヴィナスにもまた違う固有の難しさがある。それぞれの「難解さ」を味わう、その必然を感じ取れなければその難しさは悪意にしかならない。その難しさは隔壁された拒絶ではなく、彼らに近づくための唯一の細い通路で、そこはカフカの門のように、閉まってはいるが私のためだけの門なのだ。

 

 

 

 

日曜日

マウスの調子が悪いのを無理して使っていても始終いらいらするだけなので新しくロジクールのものに買い換えたが形状はほとんど同じなのに手の馴染みというのが全然なくて始終違和感を感じながら、触れることの触感の微細な感覚機能に裏切られてもいる。

 

 

 

ユダヤ神秘主義のある固有の表現についてお話しましょう。古代の権威者によって制定されたたいへんに古い祈りの言葉の中で、信者は神に向かって「あなた」(tu)と語りかけるところから始めますが、その祈りを「彼」(il)で終えるのです。まるで「あなた」に接近しているうちに、「彼」として神の超越性が出来したかのように。私が「無限」の「彼性」と呼ぶのはそのことです。

 

『倫理と無限』レヴィナス

 

 

 

 

 

昔はよく数えたものだ、三百か、四百まで、いろんなもので、雨とか、鐘とか、明けがたの雀の声とか、さもなければ、なんにもたよらずに、なんの理由もなく、ただ数えるために数えた、それからその数を六十で割った。そうやって時間を過ごした、わたしが時間だった、わたしは世界を食いつくした。いまは違う、昔とは違う。人は変わる。年を取りながら。

 
マロウンは死ぬ』ベケット
 
 

 

 

 

話が進むにつれて、屠殺場がだんだん大きくなっていった。

マロウンは死ぬ』ベケット