対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

夜の靴を探して

 

 

 

 

堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』法政大学出版局

 

 

 

 

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一週間は一週間。

 

 

月曜日

五月が終わる。みなで訪れた国東の日が遠い昔のようだ。あのころに比べ、すでに日は鋭さを持ちはじめている。葉もそれに耐えうるように少しずつ濃い。

 

 

知らないおばちゃんに通りすがり、お久しぶりですねと声をかけられる。

たぶんどこかで会っているはず、だと思う。自信がない。けど声かけは嬉しい。

挨拶は愛の経済。

 

 

自分の活動を人に紹介するのに、かつて開催した哲学ツーリズム@釜ヶ崎の開催報告を

リンクして送る。改めて読み返すと非常に良くまとまっていて自画自賛

一連の記事はほんと多くの人に読んで欲しいわ。

 

kannawadokusho.hatenablog.jp

 

 

 

火曜日

梅雨が忘れられたような晴天が続く。気持ちいい。永遠を感じる。

 

ながらく枕難民だったため、意を決してニトリのプレミアムフィット枕を購入。

なかなかにプレミアムフィットしたのでよく眠れたような気がする。

しかしそもそも自分に合った完璧な枕というのは存在するのだろうか。

まず自分という形体が流動的なので枕もそれに合わせて流動的であるのか。

 

 

走った。調子に乗った。10km近く。足が痛い。

スポーツの存在意義と芸術の存在意義は同じなのだろうか。

 

 

水曜日

新しい方から読書会参加の申し込みがある。

勇気を出して申し込みをしていただいたようで嬉しい。こちらも元気をもらう。

人生はまず飛び込んでみないと分からないことが多い。

 

 

瞑想用座禅用に座る際に使うちょっと高めの座布団を購入したが、

1番にネコに使われた。

寝心地が良いようだ。舌をしまい忘れて寝ている。

 

 

 

木曜日

雨。そういえば梅雨だった。思い出したような雨。思い出しは激しい。

 

横光利一の『夜の靴』をながらく探していた。家でネットで。

ここ1ヶ月購入しようかどうかしばらく迷っていたところ、

本棚から飛び出すように横光利一全集が床に転がっており、

全集の目次を見ると『夜の靴』が収録されていた。(日本の全集は全集ではないので)

探していたものが思わぬ形で目の前に転がっているという体験をよくする。

 

 

ずっと中止になっていた大分の韓氏意拳の稽古が7月に再開されるようで、

早速申し込んだ、

 

 

意拳は実際の組討の中で、往々にして「只一下(ただ一撃)」で戦いを終える。この意拳の奇異な現象を、多くの人は「奪力一摶(すべての力を振り絞って殴りかかる)」、「孤注一擲(すべて運に任せて一息に勝負に出る)」などと理解し、甚だしきに至っては「瘋狗精神(狂犬精神)」などと言う者までいる。実に、無知の極みである。ただ意拳がこのような現象を生じるのは、意拳がすでに判断式の偶然性の結果から、完備式の必然性の結果に入っているためである。

 

『韓氏意拳』「意拳の価値」韓競辰

 

 

 

 

 

金曜日

下から私を呼ぶ者がいる。

インターホンが壊れているので、私に用がある人は2階にいる私を下から

おらばないといけない。

フリースペースとなった旧宅を貸して下さいという申し出だった。

使う計画が合ったので丁重に断った。

とてもとてもここを使いたい意思と情熱を示されていたので、

断ったときに縋られるのではないのかと危惧したが、

あっさり気持ち良く了解してくれた。こういう人なら貸してもいいと思った。

なにかが分かることは、あるいは真理は遅れてやってくる。

ここは立地がいいので住むにも商売をするにも絶好の場所だろう。

不動産も勉強しなきゃだ。

 

 

「藤ヶ谷清掃センター」と打つところ、「富士型に戦争センター」と変換される。

ここに片付けた木屑を捨てに行った。

戦争センターは山間の中にあり、車の窓を開けると緑の濃い匂いに満たされる。

湿り気を含んだ森の匂いを嗅いだのはいつ以来だろう。

遠くで自衛隊演習の大砲を撃つ音が断続的に聞こえる。

桜井晴也さんの『あたたかい砲台のなかで』という小説のタイトルを思い出す。

まだ読んだことがないが、さいこうの小説だろうと思われる。

 

 

 

 

土曜日

黒澤明「天国と地獄」をDVDで鑑賞。

学生時代に山の様に映画を見たが黒澤明はどうも好きになれなくて、

やっぱり今見ても好きになれない。

脚本や構成、主題や役者などすべてが魅力に満ちたものなのだが、のめり込めない。

それは作り手が「作品」を完全に制御できるものと信じ、

そして作者の思惑それ以上のものではない閉じたものとして存在させ、

観客のエモーションまで設計されているその手つきがわかり醒めてしまうのだった。

つまり余白が全くない。閉じられたヒューマニズムトートロジー?)。

黒澤は完璧主義だと言うが、その力の向け方が常に閉じられた方に向かっている。

なにかそうしないと不安であるかのように、隅々までいや隅々にだけ意識がある。

たとえばアンゲロプロスの完璧主義は、歴史の暴力性、残酷性を呼び込むものとして

機能している。閉じられたヒューマニズムはない。

もしくは完璧主義とは程遠い大島渚の作品の開かれ具合のヤバさなど。

 

 

別府で開催される「温泉ソムリエ認定セミナー」の受講申し込みをする。

民間資格で3万円近い受講料は高額だとは思うが、温泉地に住んでいることもあり、

体系づけて温泉について学びたいと常々思っていたのでフンパツする。

分厚いテキストがあるので納得とする。

 

 

オンラインで対話勉強会に参加する。

テーマは「日本では意見の否定がどうして人格の否定につながりがちなのか」

メタに哲学対話、哲学カフェをみなで考えることはとても勉強になる。

ファシリテーターだけでなく、参加者全員がケアの意識をもつことの重要性。

 

ただいまだ世間では「哲学」は怪しいとか難しいとか訳の分からないものとして認識されている。

 

 

走った。

走っているときに思い出し笑いを何度もしてしまい気持ちの悪い人になっていた。

 

 

 

日曜日

 

「多文化に生きるこどもネットワーク大分」主催のオンラインスピーチの視聴。外国籍の子どもが日本に来てさらされるストレスを痛感。それをスピーチという言葉にする機会を与えることで、解放させ自尊心を回復させる機会をもつ。グランプリを決めないこと、全ての参加した子どもたちに、それぞれの〇〇賞をつくり賞状を送ったことなど、その尽力たるや頭が下がる。大人たちが知恵と情熱を使って手を差し伸べたことを子どもたちは忘れないだろう。 子ども達の表に現れにくい意を汲み取ったり、良いところをフォーカスしたりすることを「キャッチする」という言葉で表現されていてファシリテーターとしても勉強になった。

 

 

 

 

 

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通るたびに気になるマンション。

こういうのを文化と呼びたい。