対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催報告】悩める教師のためのオンライン対話 10.30

f:id:kannawadokusho:20211031212748j:plain

 

 

悩める教師のためのオンライン対話を開催しました。

今回のテーマは「親ガチャ問題をどう考えるのか?」でした。

 

 

対話に入る前に、みなさんの意見を聞いてみました。

 

・韓国ではパパチャンス、ママチャンスと言って、親ガチャとは逆の優遇で使われる意味の言葉がある。

・諦めモード。理解しがたい。言い訳なのでは

・生きるための目的、人生の目標がない

・現在の辛い状況を「親ガチャ」と言葉にすることで一瞬救われることで、次の段階に向かうことができるのではないか

・「ガチャ」とは出生の瞬間だけが問題なのか。それ以後の育てられる環境も含まれるのか。広く視野をとると、国ガチャという見方もできる

・言葉も使い方次第で、「親ガチャ」と言葉が広く認識されれば、解消に向かうきっかけになり得る

・一億総中流社会が壊れて格差が意識された背景のなかで生まれた言葉

・成功した人は自己責任をうたい、失敗した人は構造の問題を問う傾向がある

ジョン・ロックのような教育によって人間が何者かになれるという考えは否定される。遺伝ガチャ。われわれにはプラモデル程度の自由しかない

キリスト教の予定論の復活ではないか

・「親ガチャ」は分かった。で?どうするんだ

・生まれる家は選べない。皇族でも不幸ととらえられるかもしれない

 

と聞いたところで対話に入っていきました。

 

・「親ガチャ」は現状認識にすぎない

・欧米の場合はいろんな奨学金があって、条件はあるが貧しくても進学できる

・親の状況は結果

 

親ガチャを言っている人は、本当は何を望んでいるのだろうか。新自由主義の競争の中でそもそも「戦いたくない」という意思を表明しているのではないか。

 

結果を100%自分に引き受ける自己責任社会では、躓いたときに自己肯定感が吹き飛ばされてしまうので、親ガチャという概念でもって、逃げ道をつくり、その後の立て直しを計れるのではないか。

 

お前が悪いという社会の冷たさ。相互扶助は成り立たなくなる

 

親ガチャという言葉は、最初は個人の愚痴だったのではないか。禁止すると苦しくなる人もいるのでは

 

個人に負荷がかかっていることの結果。個人が小さい点になってしまっている。点としてしか存在できないでいる。

 

やっぱり責任を回避するために使われていると思う

 

どこからが自己責任で、どこからが社会の側の問題か線引きするのは難しい。たとえ恵まれた環境にいても、突然事故にあって不遇の人生を強いられることもあるし、世の中意図しない要素だらけで、親ガチャはその一つにすぎないという視点が必要なのではないか

 

個人の実存と社会の構造を問うたときに、親ガチャは見方によってその両者を矛盾せずにとらえ、考えることができる

 

そこに希望もあり諦観もある

 

親ガチャの先を未来志向で考えよう。学歴などのできる人だけが裕福になる社会ではない社会の在り方を。変わるべきは社会の側。

 

逆に成功者が、恵まれない人に対して手を差し伸べられるか

 

親ガチャという言葉を前に、教育はなにができるんだろう

 

自己責任を英語では訳しづらい。。

 

 

 

と、このあたりで時間切れとなりました。

親ガチャという言葉を前に、それを受け入れる方、乗り越えようとする方、自己責任に比重を置かれる方、社会の側に比重を置かれる方、また違うパースペクティブで考える方、さまざまありましたが、で?どうするんだというところまでは話せず終わってしまいました。

 

終わってクールダウンの時間を設け、すこし続きを話したのですが、社会を下りる可能性が現代にはないという話になって、失敗か成功かみたいな白黒以外の部分での抜け道というか、第三の選択があれば、親ガチャに拘らずに生きる道もあるかもしれないとの話、このあたりもまた話してみたいテーマですね。

 

 

ご参加ありがとうございました。また違うテーマでもって、自己責任の問題など考えたいと思います。