近年の大学では新入生に「問いを立てろ」と言うことが多い。でもそんなこといきなりできるわけがないので無視してよい。大事なのは厖大な読書を通して知を身につけ、これまでにない経験を求めること。そして社会に違和感や不満を持つこと。それでやっと問題が発見できる。問いを立てるのはそれからだ。
それから最近の大学ではアクティブラーニングと称して無理に他者と対話させ、自分の意見を言わせる授業が増えた。何度もやればそれなりに慣れてくる。でもそんな風潮に慣れなくていい。自分の意見を持ったり問いを立てたりするのには厖大な時間をかけた学びが必要である。焦らずにじっくりと学ぶこと。
映画を観て自分がなぜ面白いと感じたかをわかりやすく言語化できる映画を10本観るよりも、よくわからないけどなんか気になる(評価が分裂しているような)言語化しがたい映画を2回繰り返して観た方が、映画を分析するスキルはあがると思う。
北村匡平さんTwitterより
4月の「みんなで教育について考える哲学対話」を開催しました。
今回のテーマは「自分の意見を持つとはどういうことか?」で
みなさんと対話しました。
・ずっと気になっているテーマ
・他者と考えを共有するにはどうすればいいのか
・自分の印象を意見にまで育てる方法を知らないのではないか
・質問がありますか?という問いに、コメントで返してくることが多い
・意見と感想を区分けすることが大事なのでは
・シンプルなデザインが欲しいという場合の、その「シンプル」の中身を
言葉で説明できない
・自分に意見なんて言っても…という諦めが先立っている
・意見を言わない習慣ができている
・子どもにはそうなってほしくないけど、どうすればいい?
・意見を評価される日本の風土
・だめな意見はないという前提のイギリス
・模範解答のある日本
・ありのままの意見を言っても訂正される
・信念と事実を分けること
・意見には、信念や生い立ち、自分らしさなどが入り交じる
・常に根拠を提示させること
・意見はあくまでスタート地点という考えが共有されにくい
・孤立するのではなく、大きな論に自分が石を投げるように貢献できるかどうか
・言いっぱなしは日本では悪いこと(無責任)
・言いっぱなしだからこそ、新しい問いが生まれることも
・自分の意見を持たないと全員右へならえで全滅する危険がある
・意見にはオリジナル性が求められるけど、、
・街頭インタビューでの意見の紋切り型
・自分の意見を言う前に、空気を読んでしまう
・期待される「正解」を先に読み取って、それを意見とする、、
・欧米での「真理」観。なにごとも議論を通さないと真理に近づけないとする
・単独の意見は真理ではない??
というところで時間がきてしまいました。
個人的に気になったのは、自分の意見を言うことに抑圧を感じているところ。
ちゃんとしたこと(正解)を言わないといけないというプレッシャーがある
ということ。
こうして続けている哲学対話の目的のひとつとして、そういった抑圧からの解放というのが裏テーマとして一つあります。初め参加していたときは意見が言いづらかった人も続けて参加しているうちに、自然に発言できるようになる場面を何度も見ています。そういった一助になれば主催者として嬉しいですね。それは大袈裟に言えば、「自分の言葉」を取り戻すことかもしれません、もっと言えば自分の思いを自分の胸の内を公衆に話してもいいんだという許可を自分に与えるみたいな。それは他者がするのもではなく、自分自身が自分に出さないといけないものなので。場合によっては、一生かかることかもしれません。
ご参加ありがとうございました。