対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

気流の鳴る音

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労働が強制されない社会が実在するか否か、私は今でもしらない。しかしもしそのような社会が存在しうるとすれば、すなわち労働がそれ自体よろこびとして、マルクスが書いているように、人間生命の発現としてありうるとすれば、そこでは必ず、人間と人間との関係のみなでなく、人間と自然との関係が根本から変わらねばならないだろう。あるいは人間の存在感覚のようなものが、市民社会の人間とは異った次元を獲得しなけれならないだろう。

 

序「共同体のかなたへ」真木悠介

 

 

 

 

2022.4.4-10

 

月曜日

生徒、とふたたび海へ行った。

フリースクールに通う人間を生徒と呼ぶのがふさわしいのか分からない。

こども、と呼ぶのも違和感があるし。あくまで仮に生徒と呼ぶこととする。

 

 

100分de名著、ハイデガーの『存在と時間が始まる。

ドイツ語で存在はZein.

語源的には「何かの傍らにとどまるもの」。

これ超重要。

すでになにかと共にあるということが含まれているということだ。

 

 

火曜日

昨日生徒と一緒に拾った砂浜の貝殻や石を使ってハーバリウムをつくる。

ガラス瓶のなかの小宇宙の癒やし。

没頭して作っているときには「今」しかない。

将来のために受験勉強はその「今」を犠牲にしているのかもしれない。

 

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水曜日

生徒とクッキーを作った。

クマの形は脆かった、ハートの形は強かった。

 

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木曜日

生徒は休んだ。

時間ができたので、研修がてら別府ブルーバード劇場で映画「夢見る小学校」を見た。

 

この映画の題材となっているのは、宿題や校則、そして通常考えられる指導的立場にあるような「先生」のいない学校である。きのくに子どもの村学園、世田谷区立桜丘中学校、伊那市立小学校。

 

問う力、考える力を養うには「楽しさ」が重要であることがわかる。

 

勉強主義のレールに乗って私は生きてきたので、それとは別の価値観や世界があることを実践していきたいと思う。

 

 

帰りに別府フリースクールうかりゆハウスのフライヤーを置いて貰うよう、

いろいろ歩き回って頼み込む。

別府のトキハや別府駅内のインフォメーションセンター、

南高架下商店街のお肉屋さんや揚げパン屋さん、北高架下の雑貨屋さんなどなど、

快く貼ってくれたり、置いてくれたりしていただいた。

別府の懐の広さに副代表のりんさんと感動する。

 

 

金曜日

〈生徒〉は早く帰ったので、時間ができる。

早く帰りたければ早く帰っていいし、休みたければ休めば良い。

まずは自分で決めてみるが良い。強制はなにもない。

 

 

 

土曜日

久しぶりに休日感を味わう。

読書する。

読書する時間があることが、心にゆとりができる。

 

 

KさんとZoomで打ち合わせ。

これは偶然なのか分からないけど、Zoomなどのオンラインシステムの流行と

コロナの流行が完全に併走していて、オンラインの力について改めて驚いた。

 

 

コロナが流行って、変な話、学校を休みやすい環境ができたら、

学校に行っていたけど、本心ではあまり生きたくなかったこどもたちに、

行かなくてもいい理由ができて、休んでいる。

コロナが学校を、社会を変えるかもしれないと思った。

そういう「黒船」的な外部要因でないと変わらないな。

 

 

 

夜は、みんなで教育について考えるオンライン哲学対話を開催。

テーマは「自分の意見を持つとはどういうことか」。

 

「自分の意見を持て」という発言は、そうそう簡単ではないと思った。

 

 

 

日曜日

このところ、ずっと天気が良くて、夏を思わせるような気候で、

土や草のにおいも薫ってきて、本当に気分がいい。

 

 

真木悠介氏の訃報を聞く。

真木悠介氏のことを知ったのは随分前だが、

下北沢に「気流舎」という名前のブックカフェの存在によってだった。

(ここのロゴを作ったデザイナー綿貫宏介氏の名前も気流舎によって知った。

綿貫宏介氏にロゴを作って貰いたいという夢があったが、昨年物故された)

真木氏の代表作『気流の鳴る音』はそれから読んだ。

その後の人生においても、この本を紹介されることが多かった。

多くの人にとって勇気を与えられ、読むと元気になる本だからだろう。

 

 

今自分が考えるのは、彼が夢想したコミューンと(宇宙的な)、

対話による探求の共同体が出会う場所である。

『気流の鳴る音』の冒頭、山岸会的なものとしての「話し合い」と、

紫陽花邑的な「(共)感覚」を対比させて、後者の方を重要視している。

でも、その両者が融け合っている場もまたあるのではないのか。

そんなことを夢想している。

 

 

 

 

唖者は唖者ではない。唖者は周囲の人々が聴く耳を持たないかぎりにおいて唖者である。

 

 

そういう「とりえ」の何もないような人たちが楽しく生きていかれる場所を、私は作りたかったのです。

 

 

序「共同体」のかなたへ