世界を道徳的に感じとるとは、どういうことなのでしょうか。たとえば、雲ひとつない澄み切った蒼穹へ眼を向け、私たちの上に広がるその青さを感じることなのです。
『天体と自然界の霊的本性たち』ルドルフ・シュタイナー
子供の世界に少しでも近づきたいと思う、
そのときにもっとも近い言葉は、なんだろうか。
空の輝きに、風の輝きに胸を震わせる感性のことではないのか。
思わず声が漏れるような。
でもその輝きは自分自身からくるものなのだった。
2022.9.26-10.2
月曜日
午前中見学を受ける。
他県の方だが、鉄輪が好きすぎて毎月来ているらしい。
進学校に勤めていて、教育の在り方にジレンマがあり、
フリースクールに関心をもったらしい。
人をよく殴るこどもの世界観を考えてみる。
世界(他者)は自分にとって脅威で攻撃してくる存在であり、
その恐怖や不安から自らの暴力によって先制攻撃する。
戦争の起こりと似た原型がここに見られる。
世界観を穏やかなで親和的なものに変容していきたい。
火曜日
朝から大雨、季節の推移。
かすかに冨士屋さんの庭からウスギモクセイの香りがした。
巡りきたるもの。
水曜日
南立石公園の池へザリガニ釣りへ。
釣れなかった。
木曜日
今日は網などを万全に整えて、再度ザリガニ釣りへ。
釣れなかった。
金曜日
副代表の凜とフリースクールの方針について細かく話し合う。
あっという間に3時間、4時間と過ぎる。
核となるところ。いわゆる〈教科学習〉をどう捉えるのか。
教科学習(勉強)をしないフリースクールは多い。
ここで言う勉強とは、与えられたプリントとか宿題をやるということではない。
きちんと理解して、記憶して、自分のものになったという、そのことが勉強だ。
自己満足では決してない。
終わってこんなメッセージを送った。
教科学習を軽視しない態度というのは、つまり世の中は「やりたいこと」「好きなこと」だけで成り立っていなくて、「やらなければならないこと」とか「やるべきこと」も同時にあるのが真実で、そういう意味でも僕は教科学習も取り入れるべきだなと考えます。フリースクールの活動自体は楽しいけど、同時に請求作業とか面談とか清掃とかも付随してくる、それらもきちんとしないといけない。家で言えば、家事とかの重要性とか。そうことも、元気になった時点で面談して話したいかなと思いました。イエナプランが学習を〈仕事〉と呼ぶのはそういうことなんじゃないのかな。
土曜日
午前中は対話勉強会。
11月の哲学プラクティス連絡会に向けての決め事を決めていく。
Mさんの進行が上手い。見本になる。
アントニオ猪木死す。
日曜日
昼前まで眠っていた。
ずいぶん疲れていたのかも知れない。
夢のなかで虹を見ていたような気がする。
直ぐ間近の大きな虹。
昨日も今日も良い天気だった。
年に数回しかないような種のまったき快適で自然で抵抗がなく、
わたしそのものが自然と空気と融け合うような。
「水浴」の裸体は、むろん誰の裸体でもない。ここにいるのは、
あれこれの〈人物〉ではない。これらの裸体は、 マルヌ川の水に浸った少年の裸体を通して、 ありうるすべての裸体へと拡がっていった感覚の生命である。