対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

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2002.10 Seoul 裏路地への抗しがたい魅惑。壁から壁へ

 

 

 

 

ドゥルーズが明確に指摘するように、小津のカットは写真との類似が最も緊密に現れるその地点において、写真のありかたから最も根底的に遠ざかる。


前田英樹小津安二郎の家』

 

 

 

 

2021.9.20-26

 

 

月曜日

夜中にきれいな声の通った鳥が啼いていた。南洋の国で聞くような鮮やかな鳥の。

 

 

私が子ども時分に毎朝見ていた日テレのズームイン朝という番組がYouTubeにどなたかがアップされていて懐かしく見た。そのなかに「朝の詩(ポエム)」という企画があって、7時30分過ぎたくらいにあって、その時間になると興味を失い玄関に出て登校をはじめた記憶がある。(31分31秒のかけ声は聞いていたから、もう少し後の時間かもしれない)「朝のポエム」といっても、何か詩が紹介された記憶はほとんどなくて、「詩」というものをなにか別様の意味で使っていたのかもしれない。

 

 

 

火曜日

 

大島弓子の『毎日が夏休み』が届く。

第1章は「失業は出発のもと」とある。

今の自分のようで没頭して読み始める。

 

 

最近は夜は早めにパソコンの電源を落とし、お酒も飲まず、本を読んだり文章を書いたり、『李陵』の朗読を聴いたりする時間を確保している。そして早めに寝ることも。

 

 

中秋の名月はお隠れになっていてた。

愛知の知人も双眼鏡を構えたが曇りで見えずとのメールが来た。

 

 

水曜日

 

自分でもドン引きしてしまうような夢を見た。自分の嗜好とも離れ、暴力的で映像的な夢。たしか島田雅彦は作家にとって夢を見ることは救いだと書いていた。私から離れる、主体であって主体でないようなそれは、確かに救いである。たとえ内容がどのようなものであれ。

 

 

 

 

木曜日

日差しは強いが風は乾いて涼しい。秋分の日。秋を分けた。

ほんの微かにお隣の冨士屋さんからウスギモクセイの香りが窓からはいっていきた。

それと合わせるように鉄輪の湯浴み祭り。一遍上人像が神輿乗せられて町を練り歩く。

その後上人像の浸かったお湯に入る。

 

 

いつも机の前に並べている書誌山田から出ている稲川方人の詩集。タイトルは「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」。古書として手に入れたので、宋敏鍋さんという方の蔵書印が押されている。蔵書印を押す感触の喜びに浸りたかったのか、裏表紙から奥付から至る所に押印されている。もしかしたらこの詩集への賛辞なのかもしれないが。手遊びに宋敏鍋さんを検索してみたら、ニューヨークに住む詩人であり心臓外科医のようだった。

 

宋敏鍋(ソン・ミンホ)

1963年名古屋市生まれ。詩集「ブルックリン」が第三回中原中也受賞。

 

この詩集が読みたいが、アマゾンで検索しても鍋ばかりがヒットしてしまう。

 

 

 

 

 

 

遺稿の文字は明るく刻まれてあった

詩は理性の迫害であるべきだと

先生の最後の電話が切れた朝、

僕の決意は、

海底で哭くオニヒトデのように

ゆるぎない生涯を持て余すかと思った

僕はもう思い出せない

「近代の一日は」と

何を先生は断言したかったのか

雨の塔に列をつくって

僕たちはひとりひとり

苦々しい夏に別れる

それからふたたび木立を抜けて

孤独の砦に帰って行ったが、

別れてなお在ることの憤りは

僕たちに二度と償えないものとなった

 

 

 

稲川方人「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」

 

 

 

 

 

 

金曜日

朝、工事の打ち合わせ。日差しが強いが空気は乾いていて気持ちがいい。

こんな季節がずっと続けばいいのにと思うが、

それはそれで平準化してしまうのだろう。

われわれは差異の動物だから。

 

 

今日は意識的にオフの日と定める。今日は勉強はしない。頭を変える。

 

 

OPAMで開催中の糸園和三郎展を見に行く。2ヶ月ぶりくらいの「外出」感を味わう。

すばらしい企画展だった。この絵から離れたくないと思った絵がたくさんあった。

何度か行きつ戻りつしながら歩を進めた。

抽象と具象の加減、内政と表出のバランス、複雑と単純の拮抗、なにより配色のセンス

ピンク色の使い方に驚かされ、バーネット・ニューマンを思わせる帯のようなものが

突然現れたりもする。ものすごい〈格闘〉の痕を感じる。

それを〈祈り〉とか沈黙と呼ぶならそれでもよい。

彼の個人蔵のイコンやルオーの絵にも胸を打たれた。不意打ちのように。

高橋たか子『過ぎ行く人たち』の表紙絵を思い出したりもしたし、

香月泰男のシベリアシリーズも想起させた。

小説もそうだけど優れた作品はその作品を鑑賞することで、

考えがいろんなところに飛ぶことだと思う。

 

それにしても糸園氏は病とともに生きながら手術も拒否し絵画を創作することを選び、

なお八十九歳まで生きていたことに驚かされる。

 

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別のスペースで開催中の書道展にも足を伸ばす。私は無類の変体がな、連綿好きでいくつか気に入ったものを食い入るように見つめた。読めないけど。読めるようになりたいし書けるようにもなりたい変体がな。

 

展示は1階と3階に分けられていて、1階は入選の部、2階は名誉会員や優秀賞の部に分かれていたのだけど、1階と3階ではなんというのか、素人目にも作品から漂う風格(堂々とした感じ)が全然違って、こんなに違うものかと思った。1階の作品群も下手なものなど一つも無いけど、3階のそれはもう立っている場所が全然違う、矢を射った後にずっとそこに留まり続けている人と、射った後既にその場にはいないみたいな決定的な違い。(わかりにくい)

 

 

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ジュンク堂に寄って帰る。ジュンク堂では入口で古本フェアをやっていて、物色していたら高額になっていて入手がなかなか難しい小島信夫『原石鼎』が格安で売ってあったので購入した。五車堂のカツカレーを久しぶりに食べて帰る。美味しかった。

 

 

 

土曜日

昨日は17頃に夕飯を食べた影響か朝はすこぶる調子が良い。

以前勤めていた会社では、夕飯が23時とか1時を過ぎることが多く

体がおかしくなるのは当然だ。

 

 

夜はオンラインでソーシャルカフェを開催した。

テーマは「デートは不要不急の外出か」。

初参加者の方も多く、新しい風が吹き込まれるような気がした。

今回のようにオンラインは安定的であるより、もっと流動的でありたい。

 

 

 

日曜日

午前中、別府鉄輪朝読書ノ会を開催する。

今回課題図書としたのは中島敦の『李陵・山月記』

参加者にいつも以上に熱さや思い入れがあり、

中島敦は若くして亡くなったけど、

こんなふうに作品が支持され愛されて幸せだなあと思った。

 

 

また彼の作品は漢文調で声に出して読みたい日本語でもあり、

なにか朗読を練習する場を作れないかと夢想中。

朗読は文学作品に触れる機会だけでなく、表情が豊かになったり、

腹式呼吸でダイエット効果があったり、コミュニケーション能力の向上や表現力、

声が良くなったりと様々な効用が期待できるようだ。

興味のある方がいらっしゃいましたらお声がけください。

ラジオに出演してからというもの、自分の声について考えるようになった。

 

 

 

 

 

優れた作家たちは、精神科医脳科学者や批評家の力など借りなくても、自分が見る夢に救われます。

 

島田雅彦