1週間のふりかえり
その杉本家の肇や、清や、勝や、この四つか三つか五つのちいさな年子たちは、けんめいに反りくりかえって走り去ったが、すれ違うとき汚れた頬っぺたがももいろをおびて、金毛の孫悟空のように笑い、清がバイバイをしたとき、そのかさかさになってまっくろな筈の掌は沈みかけた夕陽と重なりゆれて、一瞬停止し、あざやかに紅く透明な血の色の、黙示の形をのこして去った。
海も空も村も、静かな夜に入りかけ、墓の上は一段と透明だった。
山の奥深く、古の来満道
伝教者と共に国境の隧道を歩いた人たちよ
大主教の日記に留められた湯坂の桜よ
かの人のなつかしい面影は
落日に消えたあの絵姿は
いま何処か
もはや誰に尋ねるすべもない
銘度利加に記された名のみの人々
ちちははよ
永い眠りにあって、尚も生きよ
『銘度利加』十田撓子
月曜日
窓を拭く。
外側の部分は拭きづらいが、うまく拭けると気持ちが良い。
自分の家からは冨士屋さんのすばらしい庭がいつも見えるので、
窓をきれいにしておくことは重要。
「Yoshioの窓」というタイトルで小説を書こうとするが、出だしから行き詰まっている。
走る。
別府は坂が多いので上り坂を走っている間は「きちい」とかしか考えていないが、下り坂は勢いがついて、筋斗雲に乗っているみたいだ。たぶん筋斗雲の感覚。
豆腐にキムチ、韓国のりをのせ、ごま油、醤油をかけて食べるのがうまい。初めはキムチだけだったのに、どんどん増えて主食化している。
火曜日
修理に出していたカメラのGR2が戻ってくる。
痛い出費だけど相棒が戻ってきた安心感は得難い。
水曜日
自宅にいることが多くなったので、ストームグラスを購入して机に置く。
気候によって結晶具合が変わる。箱庭的な癒しがある。
メダカが飼いたくなるが、猫がいるので厳しかろうと思う。
教育委員のNさんと話し合う。貴重な情報をいろいろと聞く。
別府の中学校は男子がムラムラするとかいう理由で女子はうなじを見せるのは禁止だそう。。
九州南部梅雨入りの報。じわじわ迫ってくる梅雨前線。
木曜日
シネマ5bisで映画「ブックセラーズ」を鑑賞。メンズ・デーで1,100円だった。
海外でも本を愛する者は猫を愛する確率高し。
メダカ屋に寄る。ちいさい水槽で飼うのはかわいそうだと思ってやめる。
金曜日
走る。今日は快調、体が軽い。
足裏の地の反撥がきれいに中心軸を貫いて、バネがついたように軽い。
ぼやっとしていた蛍光灯をLEDに交換する。電気工事の国家資格を持っているので一人で替えられるのが自慢。
みんな何を必死に働いているんだろうか。おれには理解ができない。人を助けることが第一。それが生命よ。生命のルールを忘れたらそりゃおかしくなるに決まってる。いつだって生命のルールに照らしておけば間違わない。人間以外誰も働いてないよ。
土曜日
九州北部梅雨入りの報。きたか。五月の光が好きなのに。
オンラインでの哲学カフェの広報を流す。テーマ決めは昨日の夜までかかった。
今回は「癒し」について考えたい。
ゴダールの「イメージの本」をDVDで鑑賞。
アーカイヴの極地。アーカイヴの洪水。アーカイヴは〈編集〉あって完成する。
ともあれ、人文学の道にしがみつくことだけを、自分の生き方にする。その勇気を手に入れるまで、30年かかった。この社会は、幼児には夢を語らせる。語らせるだけ語らせて、それなりの年頃になれば、躊躇わせ、慄かせ、諦めさせる。
ニーチェやフーコーの苦悩が、折口信夫やドゥルーズの明るさが、みえるようになる。彼らは苦悩のなかでも、明るさを失わない。前のめりに、崩れるように進むことだけを解決に、彼らは先を行く。その背中は不格好だが、美しい。自分がこの世でなしたいと思うのも、それだ。
田中希生 twitterより
哲学や文学、芸術の周辺で生きている人々というのは、
数は少なくとも、いつの時代にも必ずいます。 一切の妥協をすることなく真剣に言葉を発するとしても、 その言葉は、必ずどこかで聞かれていると考えてよいでしょう( 本質的な言葉の営みは、「今はもうそんな時代ではない」 に抗うところから始まる)。
日本には内省から始まる知識というものが殆どなく、命令と服従、
禁止と許可、鋳型の中で育てられて疑ることも知らず、 自分で考えるということを知らないばかりでなく、 それがむしろ悪徳とせられていた。
坂口安吾「男女の交際について」
日曜日
新しく拠点となるお家の片付けを進める。
先住者のグランドファーザーが残した物物との格闘。
物とどう向き合うのかは、どう生きるのかと直結している。
つげ義春の『貧困旅行記』を別府図書館で借りて読む。すばらしい脱力。
1960年代には湯の平や杖立にもストリップがあったんだ。旅館の一室だけど。