対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

遊歩のグラフィスム

 

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2002.10 Seoul 異国の雨。知らない人たちの背中の追いながら地下鉄へと歩いた

 

 

 

 

 

2021.10.11-17

 

 

月曜日

なにをした日か忘れた。月曜日は遠い。

手帖にはTSUTAYA返却とだけある。

 

 

 

火曜日

暑い。蒸します。

10月とは思えない。日曜日から冷えるようだ。

冬服を準備することのリアリティがない。

 

 

 

水曜日

大分の街へ出る。連日コロナ感染者は1人とか2人になっている。

 

 

シネマ5でアレサ・フランクリンの1972年ロサンゼルス、ニューテンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブをおさめたドキュメンタリー映画を見る。熱狂的ライブ。宗教的熱狂。熱狂により神に近づいていく。トランスのようでトランスではないけど近いものがある。歌い、体を動かす。一遍上人の踊り念仏もそのようなものだったか。足を踏みて音をならす。木板の床、モルタルの床。おそらくバプティスト系の教会は、このエクスタシーのような熱狂に至ることが教義のキモとなっているのではないか。そこにおいてのみ神に近づくみたいな。田中小実昌の父田中種助の開いた教会もバプテスト系で、そこで描かれた信仰風景も熱狂に満ちたものだった。以前廃屋となった呉の十字架のない教会を訪れたことを思い出した。それも10月の晴れた日のことだったように記憶している。今こうして引用するにあたり『ポロポロ』をぱらぱらと読み直すだけですごい。ここまでの宗教的領域に達した日本の小説は殆ど無い。遠藤周作の作品には宗教だけがない。

 

 

 

 

 

まだ町なかの教会にいたころ、このポロポロ、ギャアギャアがはじまったときは、なにがおきたのか、とヤジ馬が教会の窓にいっぱいたかって、のぞきこうもうとした。

そのあとで、山の中腹の木立のなかに、どこの派にも属さない、自分たちだけの教会をつくったのだが、教会でポロポロやるだけでなく、たとえば、父とぼくとが町の通りをあるいていて、むこうから、一木さんがあるいてきたりすると、道ばたで立ちどまり、ポロポロやりだす。停車場の雑踏のあいだで、教会の人どうしがあったときなどもそうで、子供のぼくは恥ずかしかった。これは、ポロポロを見せびらかし、つまりはデモンストレーションをしてるのではなく、からだがふるえ、涙がでて、もうどうにもとまらなく、ポロポロはじまってしまうのだろう。

 

 

 

田中小実昌『ポロポロ』(河出文庫

 

 

 

 

 

アレサ・フランクリンの映画にあった熱狂の不可解さを、多少なりとも田中小実昌の記述を通して理解できるような気がした。

 

 

 

終わってしらべもののためコンパルホールの図書館へ。読書会によく来てくれている方が司書として働いていた。マスクをしていたけれど声の質感でわかった。

 

 

終わって以前から行きたかった新刊のブックカフェBareishotenへ。ここにも読書会へよく来られる方がお客さんとして来ていた。大分の読書界は狭いのか。店主から開店に至るまでの経緯などいろいろとお話を伺った。「読むための場所」を開く。静かで、照明の加減も良い。このお店でレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)を購入した。以前から買おうと思っていたけど高いし、あまぞんでは嫌だったので、買い場所を求めていた。最近は辰濃和男氏の『四国遍路』を読んだ影響もあって歩くことについてずっと考えている。というか長く歩きたい。しばらく走れてもいない。

 

 

 

 

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木曜日

別府の図書館へしらべものに。

除籍本のコーナーにあった『張作霖爆殺』入江志乃夫(中公新書)と

ベケットの『マーフィー』(早川書房)を持ち帰る。

中公新書の深い緑色のカバーデザインが好きだ。知性を感じる。

けど勢いで持ち帰った『張作霖爆殺』はそれほど心躍る内容ではなかった。

そっと戻そうか。

 

 

夜は冷えたので長袖長ズボンをはいて寝る。

オカユも寒いのか布団に一緒に寝てくる。

 

 

 

 

金曜日

空の涯が感じられないような晴れ。澄み渡り。

鉄輪温泉は高台にあって空が近く感じられ、目線を空に合わせながら歩くと、

場所によっては空を歩いているような気さえする。

 

 

 

オンラインイベントの保坂和志の「小説的思考塾vol.5(死について)」と佐川恭一『舞踏会』の読書会に申し込む。どちらも楽しみ。

 

 

 

 

高速バスのチケットを購入する。来週福岡へ行く。

県を越える移動は1年ぶりになる。

 

 

 

月末の読書会のため、『ダンス・ダンス・ダンス』を読み直す。20年以上前に読んだときは、お洒落な台詞が臭くてついていけないところがあったが、今は主人公の闇にも深く同調できる自分がいた。暇を持て余している主人公が村上春樹氏の小説には多い。でも暇を持て余しているときほど存在論的に人はもっとも充実していると思う。そういう難しいことを描こうとしている。暇というより閑の字の方か。そしてよくぶらぶらする、歩く。そうそう、『ダンス・ダンス・ダンス』は中学生かくらいの頃、近所の図書館でなんとなく借りて、でも全然読めなくて、(大人の本の感じがした。自分にはまだ早いと思った)そのまま返した記憶がある。めちゃくちゃ売れていて、社会科の教科書にも載っていて名前だけは知っていた。村上龍の名前も。

 

 

 

 

 

 

出鱈目な睡眠パターンだったが、とにかくきちんと朝の八時に目覚めたのだ。一周してもとに戻ったという風に。気分は良かった。腹も減っていた。だからまたダンキン・ドーナツに行ってコーヒーを二杯飲みドーナツを二個食べ、それから何処に行くというあてもなく街をぶらぶらと歩いてみた。道は固く凍りついて、柔らかな雪が無数の羽毛のように静かに降り続いていた。散歩日和とはとても言えない。でも街を歩いていると精神が解き放たれるような気がした。

 

 

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)

 

 

 

 

 

土曜日

夜はオンラインで哲学カフェを開催した。

テーマは「政治的発言はなぜ嫌われるの?」。

午前中に申し込みがばたばたっと来た。

今回は10人以上集まった。これくらい集まると対話の複雑性が増して楽しい。

少ないとなぜか求心性が発生し、お互いの異質さが消える傾向がある。

 

 

終わって参加者のKさんとチャットですこし対話をする。

アメリカでは巧みな弁説は評価に値するが、日本ではそうではないという話。

口八丁という言葉。

 

 

 

日曜日

寒い朝「本読みに与ふる時間」をオンラインで開催。

『ウォークス』を読んだ。すばらしい書物だ。

 

 

午後からはカフェフィロ主催の読書会「四国遍路」辰濃和男著に参加する。

こちらもテーマは歩くだ。

四国遍路を体験されている方の話、金剛杖は野垂れ死ねばそのまま墓碑となる。

四国遍路にはクライマックスはない。終点がない。

迷うことも主題になる。包み込むこと、死ぬこと。

サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にもお接待はあるという。

いろんな人の「歩く」ことの経験を聞いていて、大峰山にも惹かれ始めた。

佐渡にも模造版の八十八カ所があるのか、知らなかった。

解説者の佐々木教授のライプニッツとお遍路の関聯について聞けば良かった。

 

 

動詞だけで記述された特異なこの本の目次をまとめてみる。

 

 

 

 

 

一 徳島・へんろ道

1 誘われる 2 着る  3 歩く 4 いただく 

5 打たれる 6 出あう 7 はぐれる 8 履く

 

二 高知・へんろ道

1 解き放つ 2 突き破る  3 泊まる 4 包みこむ

5 体得する 6 あこがれる 7 食べる 8 ほどこす

 

三 愛媛・へんろ道

1 痛む 2 泊まる  3 迷う 4 修行する

5 回る 6 融和する 7 遊ぶ 8 ゆだねる

 

四 香川・へんろ道

1 哭く   2 死ぬ 3 捨てる 

4 融和する 5 洗う 6 結ぶ

 

 

辰濃和男『四国遍路』目次より(岩波新書

 

 

 

  

夕方からぐんぐん気温が下がっていった。慌てて冬服を出して着る。

昼の間に干した毛布も掛け布団も出す。

太陽の匂い。オカユは毛布が好きだ。

 

 

近所をむちゃくちゃに歩いてみる。鉄輪の湯けむりの風景が広がる。

汗ばんで気持ちよくなる。

歩道は車道に押されてか細く、歩くことは貶められている。

四国のお遍路もそうであるようだ。

 

 

 

 

 

誰もが歩くことについてアマチュアである。だからここで語られる歩行の歴史はアマチュアによる歴史だ。そして歩行になぞらえていえば、それは長い経路をたどりながらさまざまなフィールドを横切ってゆくが、どこにも長逗留はしない。

 

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)