ひだり【左】
アナログ時計の文字盤に向かった時に、
七時から十一時までの表示のある側。
「明」という漢字の
「日」が書かれている側と一致。
また、人の背骨の中心線と
鼻の先端とを含む平面で
空間を二つに分けた時に、
大部分の人の場合、
心臓の鼓動を感じる場所がある方の部分。
2022.2.7-13
月曜日
今日の日中は暖かさを久しぶりに感じられた。
からだがそれをよろこぶ、ゆるまっていく、跳ねていく。
あなたが本当になりたいものになろうとすると周りは反対する。一番大切なのはあなたの心と直感に従う勇気。あなたの心と直感はあなたが本当は何になりたいのか知っているから。スティーブ・ジョブス氏の言葉。
ある哲学対話のとき、介護士を目指そうとしている人に対して、キツいよーとか辛いよーとか諫めるような呪いの言葉をかける人がいた。ある決心や覚悟した人間に対して年配の人間がそのような言葉しかかけられないというのは、哲学的営みからもっとも離れたことである。だがこれは非常によくある話でもある。それくらい、「現実」や「経験」の呪縛は強い。このことに関して、ある参加者からベンヤミンを薦められた。大人には「経験」しかないのだと。
火曜日
先日亡くなったテック・ナット・ハン師のDVDを偶然にも長くレンタルしていた。彼が開いたフランスのプラムヴィレッジは15分おきに鐘が鳴り、そのときはそれまでの作業をやめ、じっと沈思しなくてはいけない。まさにマインドフルネス。「今」というときを常に逃し続けるのが現代人。心は過去に、未来にふわふわと飛んでいる。
水曜日
1940年代の戦後すぐの東京の映像。スマホがないので、みんな真っ直ぐ前を向いて歩いているのが格好よく写る。それだけで充分フォトジェニック。背骨を伸ばして真っ直ぐ前を向いて歩くということは本当に大切なことだと思う。スマホのせいで景色が変わった。みんな前を向いて歩こうや。
木曜日
映画「ドライブ・マイ・カー」を見た。アカデミー賞にノミネートされたせいか、シネマ5は満員御礼で臨時席まで作られていた。
この作品についてはノレるところとノレないところが半分半分。濱口監督が他の作品でも拘泥している演劇の原理が、やっぱり映画の原理と相性が良くないなといつも感じる。そこがカサヴェテスやアンゲロプロスとの違いだろう。映画より演劇の方に魅せられている。また村上春樹的な自意識への囚われも映画ではまどろっこしく、日本映画によく見られる泣き落ちは耐え難さもあった。緻密に練られていると思しき脚本のすべてを理解したわけではないが、東京に対する広島、民族的、あるいは手話を使う者の辺境性などはとても興味深い。チェーホフもいい。手話の美しさの再発見。ただ「映画」だけが希薄だった。「映画」を見たいと思う。
アカデミー賞はなんらか獲れるだろう、その種の「希望」がこの作品には描かれていた。
金曜日
最近朝起きたら、鼻水が溜まっていることがあって、今日なんか打ち合わせのため
外出したら、目がチカチカする。花粉の季節だと思い当たった。
毎年いつも始まりは風邪のような感じがするのだが違うのだった。
午後は別府フリースクールうかりゆハウスの打ち合わせ。
凜さんのヴォーカルレッスンをやりたいという思いの込められたフライヤーが
できあがる。
土曜日
夜に「みんなで教育について考えるオンライン哲学対話」を開催。
テーマは「教養」について。
抽象と具象を往来できて、対話中に多くの問いが発せられた、
とても充実感のあった回となった。
手応えのあった回とそうでない回の違いってなんだろうか。
教養と言えば、大学時代に思い出す先生が何人かいる。
その背中をずっと追いかけているのかもしれない。
そんな背中を持てるというのが、大学の場所かもしれない。
先生に生徒が評価を下す今の大学はわからないけど。
鉄輪読書会の案内をつくる。
今月は小林多喜二を読む。先月は三島由紀夫だった。
日曜日
寒い雨。こうして少しづつ春に近づいているのか。
スピノザは私たちを見捨てているのではなく、自分自身で完成させよ、と言っている。その答えのすべての構成要素を彼は私たちに与えている。完成させねばならない。選択の余地はない。そうでなければ、スピノザ主義であることを諦めよ」ドゥルーズ